魔女の結界への突入
夢と現実の切り替えは一瞬だった。
「……! ッ! ッ~!」
跳ね起きた動作で、僕は何か硬いものに鼻から激突し、痛みに悶える。僕の身体がシートベルトに固定されていなかったら、もっと強くぶつかっていただろう。僕が鼻を押さえていると、さっきぶつかった硬いもの、フライパンが横に引っ込んで代わりにポケットティッシュが差し出された。
「あらら、ごめんごめん。痛かったっしょ」と運転中のお姉さんが言う。
僕は無言でティッシュを受け取り、数枚を鼻に当てた。ばっちり鼻血が出ていた。こよりを二つ作り、鼻の両穴に差し込んだ。
「……何すんですか」僕はようやく口を利いた。
お姉さんがフライパンで叩き起こしたのだろう。何だ何だ、寝ている僕をフライパンで起こすのが流行っているのか? というか、どこからフライパン出てきた。
「寝苦しそうにしていたから心配だったんだ。何度か肩を叩いてみたんだけど、君ちっとも起きる気配がなくてさ。そしたらエカチェリーナちゃんが、フライパンを咥えて差し出してきて。これ、管理人の人が積んでいたものみたいだね。キャンプ用かな」
お姉さんは自分の腿に乗せた小振りのフライパンを示してそう言った。
「カチューシャぁ……」
僕が振り向くと、後部座席でカチューシャが熟睡していた。狸寝入りではないようだ。お姉さんが話すには、フライパンを渡すなり眠り込んでしまったらしい。犬の寝顔はよく分からないが、僕にはカチューシャが安らかに寝ているように見える。
「カチューシャ」
もう一度その名前を呼んだ。顔を伏せていたカチューシャが僕の声でむくりと顔を起こし、僕を見た。無言の視線のあと、ワンッ、と強く鳴いて、カチューシャは興味なさげに明後日の方向に向いてしまう。胸がざわついた。いつもの陽気で生意気な声が聞きたかったのに、どうしたことだろう? 何も言ってこないカチューシャを僕は無心で見つめた。何かを考えてはいけない気がした。カチューシャは話しかけてこなくて、僕はそのことの意味を分析しようとせずに、前に向き直った。
僕は口元を押さえ、ゆっくり呼吸する。
「流君、大丈夫?」お姉さんが聞いてくる。
「……ええ、平気です。何てことありません」僕は自分でもそう思い込んで、軽く目を閉じる。「ちょっと、最悪な夢を見てしまっただけです」
車は高速道路を走っていた。ダッシュボードの時計を見ると、八時五分前だ。
「そろそろ到着するよ」お姉さんの言葉で、僕は進行方向に目をやる。高速道路の分かれ道の片側に白い霧が立ち込めていた。濃霧に覆われてその先は窺えない。霧の向こうに高速道路の出口があるはずだ。前を走る車は、一台も霧の中に入っていかない。
「魔女が扱う結界の一種だ。あの向こうには別世界が広がっていると思ってくれ」お姉さんが言った。
「入れますか?」
「当然。結界術は私の得意分野。侵入するくらい朝飯前です」
「そういえば、お腹空きましたね。朝ご飯どうしますか?」
「……君の日常感覚すごいね。その頭の中はどうなっているのやら」
「ただの四畳半の和室です」
「突入するよ」お姉さんが言った。車は濃霧に包まれた道路に入っていった。
ライトを点けたが、霧が濃すぎてほとんど効果はなかった。料金所のETCレーンを潜り、一般道路に出た。ゆっくり走りながら左右の霧の中を観察するも、動いているものは一つも見当たらない。濃霧が音を吸収するのか、辺りは静謐そのものだ。
しばらく走っていると濃霧を抜けた。出た先には異様な景色が広がっていた。
世界がセピア色だった。まるで色褪せた写真を見ているかのような光景だ。空も道路も町並みも木々も、すべてから色彩が失われ、暗褐色のグラデーションに彩られている。色が残っているのは僕たちだけだ。
そして。
「うわっ、気持ち悪っ」
あらゆるものが立体感を失い、写真のように平べったくなっていた。陰影はあるし遠近感もある。横や裏に回って見てみれば、そのときに応じた側面や裏手を見せてくれる。ただ迫力が欠けていた。ハリボテでも見ている気分だ。
「ここで降りようか」お姉さんは車を停めて降車した。僕もシートベルトを外し、後部のカチューシャにここで待っているよう命令して、車を降りた。降り立った先の道路は体重を掛けたらへこんでしまいそうな柔らかさだった。そして、ここまで乗ってきた自動車もパネルの雰囲気に変わっていた。
「これが結界の効果ですか」僕は聞いた。
「そうみたいだ。魔女の好みに合わせた亜空間。ベースは……四次元界か」
「四次元界?」僕は鸚鵡返しする。「僕たち、別の次元に来たんですか?」
「うん。恐らくあの霧を潜るときに『持ち上げ』られたのだろう。慣れない内は酔うかもしれない。我慢して」お姉さんは辺りを警戒しながら言った。「魔女の能力を使いやすくするための魔女専用の庭園だよ。いつ攻撃が飛んできてもおかしくない」
「魔女を探しましょう」僕は足を進ませた。
「あれ、エカチェリーナちゃんは置いていくの?」
「はい。眠そうにしてたんで」
町を散策してみると、今朝の破壊があちこちに残っており、パトカーや救急車が道路を行き交っていた。だが、どれも平面的な外観でリアリティは伝わってこない。まるでリアルスケールのおもちゃの国に紛れ込んでしまったような気分だ。人間はどうしてか一人も見当たらなかった。その疑問をお姉さんに尋ねてみると、彼女はこう答えた。
「非生物の形状や運動は普遍的なため、四次元の界にいても認識することは可能だけど、人間はその精神や概念が常時変動するので、こちらの認識から外れてしまうんだ。植物が見えるのは、生物の中でも植物の生態が確立されているからだね」
「はあ……」
クリアレスと似た状態にいるということかな、と僕は解釈した。向こうに僕たちを認識できる人がいれば、こちらからもその姿が見えるのだろう。
住人のいないペラペラの町を歩いてから十五分が経った。ある交差点でお姉さんが立ち止まり、見上げた。その視線を辿っていくと信号機がある。
「……? どうしたんですか」
「奴がいた」お姉さんが虚空を睨みつけながら呟いた。
再び信号機に振り向くと、その上の景色が立体的に歪んでいた。のっぺりとしたセピアの空を歪めるそれは人の形をしている。段々と透明の輪郭がはっきりと浮かび上がっていき、腕らしき二本が左右に伸びる。
パチンッ、と指が鳴らされ、透明人間に色が付いた。信号機に腰掛けてこちらを見下ろす鏑海音の姿があった。まるで空間に突如現れたように見えるが、こちらの目に見えていなかっただけで、ずっとそこに座っていたのだろう。
こちらの視線を受け止めた鏑海音は、狂ったように高笑いした。
「待ぁってたよおサカノ君。君ならちゃあんと戻ってきてくれると思ったわ。そこの天狗女が唆してくれたんでしょう? 私を退治できるって希望を持たせて。あははははっ! あーりがたい話ぃー!」
お姉さんが僕を庇うように前に立つ。僕はお姉さんを制し、鏑海音に話しかけた。
「キンキンと甲高い声を出すな。っつーか、さっき会わなかったっけ?」
鏑海音は頬に両手を当てて、顔を振る。
「嫌だわ過去を蒸し返すなんて。私が暗殺に失敗したことを掘り返して嘲笑うつもりですの汚らしい。あんな犬コロに噛み付かれるなんて私も落ちぶれたわ」
「カチューシャはどうした?」
「はてな? 質問の意図が分からないわね。どうしたってどういう意味?」
「……カチューシャを、どうしたかと聞いているんだ」
「シャボン玉が目の前に浮かんでいた。私は手を伸ばしてそれを割った。……ただそれだけのことを、これ以上どうやって説明すればいいの?」
僕は、目の前が白くなり、音が遠ざかるのを感じた。
「……鏑海音」
「あーらら? もしかして怒ってる? バッグアップごときに何を熱くなっているの。可愛いなぁ。可愛くて可愛くて、下らない」
鏑海音は微笑むと、信号機から飛び降りる。道路の中央に着地した鏑に、路線バスが普通に走行してくるが、バスと鏑はぶつかることなくすり抜けた。鏑は道路の中央から話しかけてきた。
「ねえ、ここの座標がどこだか君は覚えている?」
僕は交差点を見渡し、道路に面したカラオケボックスに気付く。そのカラオケは水曜日に、僕たちがクリアレスから一時避難し、対策会議をした店だった。
鏑海音が近づいてきながら頷いた。
「そう。ここは私がベヒモスを召喚した座標。私たちにとって思い出深い場所だよねえ。私が、何が言いたいのか分かるぅー?」
僕は沈黙を返した。お互いの距離が五メートルを切った。
「ここで君を待ち伏せしていた目的はぁー、すーなーわーち、ペットの敵討ちいいいいいいいっっ!」
大声で絶叫すると、鏑海音は膝を沈ませ、飛び掛かってきた。刑事のお姉さんが飛び出し、回し蹴りで迎撃した。お姉さんの右足がムチのようにしなり、鏑のこめかみを打つ。しかし、弾き飛ばされたのはお姉さんの方だった。
「……ぐッ!」
鏑は身動きせずに突き出した腕を下ろす。蹴りに対して、ただ突き飛ばすだけのカウンターで圧倒したのだ。鏑はつまらなそうに吐息する。
「肉弾戦とかマジ止めてもらいます? 泥臭いし時代遅れでやってらんねえ」
吹っ飛ばされたお姉さんは、ブロック塀と電柱を薙ぎ倒し、居酒屋チェーンの建物に突っ込んだ。ぽっかりと開いた壁の大穴からお姉さんが飛び出してくる。コンクリ粉や木片で汚れているが、出血は見当たらない。どこも怪我していないようだ。お姉さんは顔を拭い、唾を吐いて挑発的な笑みを浮かべる。
「こんなものか、鏑矢の魔女。これなら遣い魔の方がいくらか痛かったぞ。無理やり若者言葉使っても、てめえの萎びたセンスは隠せねえよ、クソババア」
言葉遣いが荒くなっている。その罵倒に鏑海音は反応した。
「んまあ! たった一万三千二百歳のピチピチガールに何てことを!」
「縄文時代から生きているアマのどこがピチピチだクソババア!」
二人は同時に飛び出し、空中で激突する。金属同士がぶつかったような重低音が響き、今度はお互いが飛んできた方向に弾き返された。二人は宙を蹴って姿勢を整え、再び空中で激突する。お姉さんと鏑海音は打撃の応酬をしながら空に駆け上っていく。頭に血が昇った二人の殴り合いを僕は見上げる。
戦いはお姉さんの優勢に見えた。お姉さんの攻撃の手数に、鏑が対応し切れていない。何度目かの激突の末にお姉さんの蹴りが直撃し、鏑が蹴り落とされた。斜めに落下した鏑はアスファルトにバウンドしながら吹っ飛んでいく。
お姉さんは一度着地してからバックステップで、僕の近くに跳んできた。
彼女の姿は少し変化していた。黒いスーツの袖口が着物のように広がり、裾が長くなっていた。こちらに振り返った顔には、額に三つ目の目が開いていた。
「……んー、ちょっと嫌な予感がするな」
「そうですか。優勢だったように見えましたけど」
「いや、こっちの攻撃はちっとも通用してないよ。手応えが軽すぎる」
「あははははははバレちったぁー?」
突然。
何もない空間に、紅い腕がひょろりと生え、お姉さんの右肩を掴んだ。こちらが呆けている一瞬の間に、肉が潰れる最悪の音が鳴った。お姉さんは苦悶の表情を浮かべ、しかし悲鳴一つ上げずに、肩を握り潰した腕に左手で殴りかかる。紅い腕は潰れた肩からパッと手を離し、耳に憑く笑い声と共に、虚空に消えた。
お姉さんは血塗れの右肩を押さえ、片膝を着く。
「大丈夫ですか」見れば分かることを僕は聞いてしまう。
お姉さんは額に脂汗を浮かべて、しかし、強がりに笑った。
「……あははっ。大丈夫じゃない。流君は冷静ね。感情はどこにやったんだ?」
「今は胸のポケットの中です。そんなことより、早く止血しないと……」
「治療する暇とかあるんだ、よーゆう♪」
また空間の隙間から鏑海音の笑い声が漏れ出てきた。
「……っく!」お姉さんが僕を突き飛ばす。
虚空から生えた腕が、お姉さんの首を掴む。その首が右肩と同じ結末を辿るより、お姉さんの両手の方が速かった。「ぎゃあああああ!」鏑の悲鳴がどこからともなく聞こえ、見ると、お姉さんが紅い腕の手首と肘を掴んで、紙粘土のように捻り千切っていた。お姉さんは、赤い断面を見せる敵の腕を投げ捨てて、言い放った。
「こそこそと隠れていようが、捕まえてしまえばこっちのもんだ。下らない手を使ってねえで、さっさと姿を現せ、鏑矢の魔女」
「…………」
風景が歪み、鏑海音が十メートル先の道路に現れた。
魔女の両腕は二本とも揃っていた。
あれ? と僕は不安を感じる。さっき片腕を引き千切られたはずじゃ……。
同じことを思ったのか、お姉さんが、千切って投げ捨てた紅色の腕に視線をやった――その瞬間、背後の空間から数十本の紅い腕が現れ、彼女の全身を捕まえた。
「……なッ!」
お姉さんは瞬く間に大量の紅色の腕によって、空間に縫い止められる。彼女は振りほどこうとするも、指の先まで万力の腕に捕らわれているので効果はなかった。
紅い腕は次から次へと空間の穴から生えてきて、お姉さんのまだ掴まれていない箇所を包帯のように覆っていく。口も塞がれ、悲鳴も上げられなくなる。
「どうかしら、私のかぁわい千手観音ちゃんの腕の中は?」
磔にされたお姉さんに、鏑海音が歩み寄ってきた。
「慈悲ではなく、無慈悲の御手。その中にか弱い命が握られると思うと、うふふふぞくぞくしない?」
鏑は、道端に落ちた千切れた腕を拾い、愛しげに頬ずりする。
「可愛い繊手を千切るなんて、残酷なことをするわぁー。私ったら思わず、自分のことのように悲鳴を上げちゃった!」
鏑は、紅色の肉の塊に向かって独り言を続ける。腕だけの異形に、髪の先から足の爪先まで完全に包まれたお姉さんの声は、呻き声すら聞こえてこない。
何百本もの紅い腕が触手のように蠢き、そこに恍惚を浮かべて話しかける少女の光景はどこまでも壊滅的で、怖気がするほどおぞましかった。
鏑は僕の方を一瞥もしなかった。相手にする価値がないと思っているのだろう。順当な判断だ。目の前の現象は、僕にどうこうできるレベルを超えている。
鏑矢の魔女は醜い肉塊に言う。
「さっきあなた何て言っていたっけ? 『捕まえちまえばこっちのものだ』? でも、たった二本の手で、九百九十九本の腕をどうやって捕まえるのかなああ? 見たいなあ見てみたいなああねえねえ見せてよっ!
――――――――――――っっっっって、無理だよねええええええええええ! ねえ聞こえる? 私の言葉の意味分かるううう? 私の可愛い千手観音ちゃんはね、千回きちんと噛んでから飲み込むんだ。獲物の一〇〇〇箇所の部位を握り潰して、すり潰して、捻り潰すの!」
鏑海音は、僕の方に振り向いて凄惨に微笑んだ。
「ほらぁ、サカノ君も一緒に見ようよ。君のことを身を徹して守ってくれた優しいお姉さんが、真っ赤な真っ赤なトマトジュースに変わる瞬間を、さ……。クラスのみんなも、こうやってドロドロになったんだよぉ」
「……自分の能力をぺらぺら自慢する人って嫌いだな」僕は白けていた。「死亡フラグだよね、それ」
「あはははっ、死亡フラグって、おっもしろ――」
僕は、自分が拳を握ったのははっきり覚えていた。そこから次の自覚まで、時間が少し跳んだ。気が付いたら、僕は鏑海音を殴り飛ばしていたのだった。殴ろう、という明確な意思はなく、ただ身体が動くのを傍観していた。




