流れに遡る
変な時間に起きた。
僕はうっすらと目を開ける。室内はまだ真っ暗だった。カーテンが掛かった窓は、そこで世界が途切れているように暗い。辺りは静まり返っているのに、生命の気配はしんしんと伝わってくる。僕は身体を起こして、自分が病院のベッドで寝ていたことを思い出す。連鎖的に、どうして僕が病院にいるのかも思い出し、最悪の気分になる。
まだ真夜中だというのに目が冴えてしまった。昨日の昼間にずっと寝ていた(気絶していた)からだろう。枕もとのライトを付けて、壁の時計に目を凝らしてみると、三時九分だった。
ライトを消してまた暗闇に埋もれた。この方が物事を考えるのに向いている。感覚を遮断するとその分、自分の内側に集中できる。
僕がいるのは個室だ。僕以外の息遣いは聞こえてこない。健康面に支障はない。精神も貪るように寝たお陰でだいぶ回復した気がする。万全な状態だ。
昨日のことを思い出す。
一時間目、理科の授業で理科室に行ったら、理科室が真っ赤に染め上げられていて、二年一組の学級委員長、鏑海音がクラスメイトを惨殺したあとだった。
三十人の同級生と一人の教師を、輪切りにして微塵にしてミンチにした。
委員長は、自分は鏑矢の魔女だと名乗った。
彼女が仕出かしたことはどこまで大騒ぎになっているだろうか。警察が動いている。走査線も張られて、犯人を追っているはずだろう。相手が人外のものだと知らずに。鏑海音にも辿り着けていないのではないだろうか。理科室にあった死体の損壊具合を見るに、鏑海音があの中に『混ざって』いないことにまだ気付いていない可能性もある。
僕が警察に知っていることを全部話して、捜査協力するという選択肢はない。相手が異界の魔女という話を信じてもらえても信じてもらえなくても、普通の人間が鏑海音に敵うはずがない。三十一人の人間を一瞬で数センチサイズに粉砕するような奴なのだ。取り押さえようとすること自体が不可能だ。
「……んにゃ、理屈をこねくり回してもしょうがないか」
これ以上、被害者を増やしたくない。ただそれだけだ。僕の事情で始まったような戦いなのだ。できるなら、僕の手で始末を付けたい。
僕がすべきことは二つ。できることではなく、すべきことだ。一つは、魔女である鏑海音をこの世界から退散させる。もう一つは、鏑海音が殺したクラスメイト三十人と理科教師を生き返らせる。鏑を追い出せれば二つ目の目的も果たせるが、もし追い出すのが無理でも鏑と交渉して、クラスメイトたちだけでも生き返らせたい。
「っで……、僕にできることは、奴隷になることだけ、か」
鏑海音を打倒することは、僕にはできない。鏑海音の下に付き、魔女を説得してクラスメイトを復活させ、世界撲滅もやめさせる。
――そんなこと可能だろうか?
あまりに無茶なプランだ。僕は暗闇の中で天井を見上げた。
そのとき、廊下から物音がした。病室のドアが開いて、何かがすらりと入ってきた。
「やけにシリアスじゃん。こういうの嫌いではなかったっけ?」
生意気な声が室内に響いた。暗闇に浮くシルエットは四つん這いの獣。小声だったが、僕にはその声の持ち主が分かった。
僕は、彼女に話しかけた。
「お前って犬の状態でも喋れたんだ、カチューシャ」
「ワンは最強だからねー」と獣のシルエット――ペットのコリー犬は言う。「喋れるというかテレパスみたいな。お兄ちゃんとワンの魂がドッキング! 犬だけに!」
「黙れよ装飾品……。親父ギャグを飛ばしに来たのかよ」
「いやいや。ピンチと聞いて、歴史の枠を超えて駆けつけたワン。親不知さんを真似て言うのなら、ラスボスが参戦した! って感じだね。大ピンチ!」
「ばっか。ピンチってほどじゃない。こんなん日常茶飯事だよ」
「はた迷惑な日常だねえ」
僕はベッドから下りた。ライトを付けて、靴を探した。ベッド脇の棚の中に、僕の運動靴と私服の着替えが入っていた。僕は昨日から制服姿のままだった。ワイシャツにスラックス。両方とも寝汗でびっしょりだった。学ランは壁にハンガーで掛かっていた。
僕がティーシャツに着替えていると、カチューシャが寄ってきた。
「行くんだ? 分かっていると思うけどあの魔女本気だよ。歯向かえば、お兄ちゃんでも始末される。敵とか手下とか関係なしなんだ」
「ヒステリックだな」僕は鼻を鳴らす。「僕の大嫌いなタイプだ」
僕たちは病室をこっそり抜け出した。出入口のドアの脇に、体格の良い男性が座り込んで寝ていた。僕の警護で付いていた刑事らしい。
「ワンがちょちょいと眠らせましたワン」とカチューシャが言った。何気にハイスペックなコリー犬だ。
病院の廊下は冷たく静まり返っていた。エレベータで一階に降りていき、玄関ホールに進む。ところどころにある非常口の緑色のランプと自動販売機の光が、灯台のように暗闇を照らしていた。
「幽霊とかそういうんじゃなくて、夜の病院って恐いよな……」僕は呟いた。きっと一人だったら病室から抜け出そうなど思えなかっただろう。
正面玄関の自動ドアを潜り、病院の外に出る。まだ警察の見張りが近くにいるような気がして、僕たちは病院の敷地の外へ歩いていく。
僕は、茶色の毛並みを見下ろしながら聞いた。
「カチューシャは委員長、鏑海音のこと知っていたのか?」
コリー犬のカチューシャは歩きながら、頭を横に振る。「木曜日の段階では、委員長は委員長だったワン。あれは鏑矢の魔女が、鏑海音の存在を乗っ取った形だね。鏑海音の魂を自分のもので上書きして、顕現しているんだよ。七次元界での姿のまま三次元界に『下りてくる』ことはできないから」
「オカルト用語なしで頼むよ、解説役」
「善処するよ。魂が酷似していれば、魂の器も酷似する。器というのはこの世界の場合は肉体のことだよ。魂がこっちの世界にある肉体に飛び込んでいるんだワン」
「悪霊が取り憑いている感じか。今のカチューシャと同じか?」
「人聞き悪いこと言わないで。ワンのは憑いているというより、ワンの声の受信機にしているだけだよ。いわばトランシーバーだワン。結論を言うと委員長が魔女に食われたのは恐らく金曜日の朝だワン」
「なるほど……」
僕とカチューシャは駐車場を通り過ぎ、病院の敷地の外、車道に出た。二車線の道路が左右にまっすぐ伸びており、車は一台も走っていない。飲食店の常夜灯と信号機がぽつぽつと光って、そこまでの距離を主張している。
「さて。どこに行こうか?」
「ワンに聞かれても困る。目的地はどこだワン?」
「……とりあえず、学校に行きたいかな」僕は左に進んだ。
「魔女の手がかりを探すんだね。ガッテン!」
カチューシャがとことこと追ってくる。病院から中学校までの距離は三百メートルほどだ。校庭内に遠目に赤いランプが点滅しているのが見える。警察の車両だろう。こんな夜明け前まで現場の調査をしているのか。
僕たちは、車が来ないのをいいことに、車道の真ん中を歩いた。
僕は聞いた。「話を戻すけど、委員長を助けることは可能?」
「分からないワン。悪魔だったら回復も望めるけど、相手が魔女だと魂を染められてしまうかも……」
「何だそりゃ? どういう意味だ」
「魂が惹き寄せられて、向こうの住人になってしまうということ」
「っつーか、さらりと聞き流しちゃったけど、悪魔って言った? 悪魔も異世界の住人だったの? さっきの感じだと魔女の方が上位存在っぽいし」
「異世界の講義は与太話だからカットするワン」
「そんな殺生な……」気になっているのに、誰も話してくれないんだよな、異世界の話。多重次元界構造だっけ? その仕組みもまだチンプンカンプンだし。
僕の不満な顔をカチューシャは見上げてきた。
「どうせ理解できないし、理解してもらっても困るんだワン。無知のままでいることがお兄ちゃんの特性を活かす方法なんだ」
「え、何それ? 僕の特性? 初耳」
「初耳じゃないはずだけど……。ワンが木曜に話したはずだけど……」
「どんな話だったっけ?」
「思い出す気ゼロだなぁ……。ほら、イレギュラーを引き寄せやすいとか世界のバランスとかって」
「ああ、あれね。あんな話で理解できるわけないだろ」
「まあ、それでこそお兄ちゃんと言いますか……」カチューシャがしみじみと言った。
それには僕も同意だった。何も理解しないままここまで来てしまったことを、今さらながら認識する。色んな人が色んな説明をしてくれたけど、少ししか僕は理解できていなかったし、彼らが話さなかったことの方が多いだろう。事の本質を知らなくても、やってみれば何とかなるということの証明の気もする。
「あるいは、世界を変えるのはいつだって馬鹿だってことかね」
「馬鹿なんだね、お兄ちゃんは」カチューシャが明るく言った。
「蹴り飛ばすぞ、装飾品」
僕が足を振りかぶると、カチューシャは素早い身のこなしで跳びすさる。産まれたときから飼い犬の彼女だが、野生は失っていないようだ。チッ、憎たらしい。
「思っていたより元気そうだね」
突然、女性の声がした。それに反応して、カチューシャが光の落とされた雑居ビルを睨みつけた。ビルの手前の駐車場に黒塗りのセダンが一台停まっていた。車内には誰も乗っていない。
「……誰だ?」僕は暗闇に声を掛けた。
セダンの陰で何かがもぞりと動いたと思ったら、人影が現れた。そいつは車を回って、僕たちの方に近づいてくる。
「ペットとじゃれているとこごめんね。こんばんはー」
人影は手を振ってくる。黒いスーツの目つきの鋭い女性だった。
「あ、刑事さん」僕は顔を判別して会釈した。「どうも」
「はいどうも、刑事のお姉さんです。これで会うのは三度目になるね。えっと……」お姉さんは懐から手帳を取り出した。「えっと、これ何て読むんだっけ? 苗字の流は読めるんだけど、下の名前。遡?」
「いえ、この漢字は『さく』とは読みません。正解は訓読みです」
「あ、ごめん。じゃあ……」お姉さんが手帳に目を落とす。
「流でいいです。できたら下の名前は呼ばないでください。僕もお姉さんの名前を呼ばないので」
「それって交換条件になってなくない? ま、オーケー、流君って呼ぶよ」
お姉さんは左右を見渡して、僕とカチューシャを観察し、首を傾げた。
「誰かと話しているように聞こえたけど、流君って電波少年?」
僕は隣のカチューシャに聞いた。「お前の声って、一般人には聞こえないのか?」
「うん、お兄ちゃんにしか聞こえないよ。テレパシーで話しかけているから。それと、この人は一般人じゃない」
「一般人じゃない? 警察関係者って意味じゃないよな……。ってことは」
僕がお姉さんに視線を移す。カチューシャの方が事情通そうだけど、あまり大人を蔑ろにするのはよくないよな、と思い、僕は刑事お姉さんに話を振った。
「えっと、どうして、お姉さんがここに?」
「私も事件の担当だからね。県警本部総出で捜査に取り掛かっているよ。地方じゃ凶悪事件は滅多に起こらないからねぇ。でも、私がここに来たのは個人的な興味から。君に会いたかったのさ」
「僕にですか」
「ここで待っていれば、君が来るような気がした」
お姉さんは口笛を吹いてから、足をセダンに向けた。
「乗りなよ。病室に戻されたくないでしょ?」
背後に光を感じて、僕は振り返った。病院の方角で小さな明かりがいくつも動いているのが見えた。僕が病室を抜け出したことに気付いて、警察が探しに来たのだろう。
お姉さんは黒いセダンの運転席のドアを開けて、鋭い小声で言ってくる。
「さあ早く」
僕はカチューシャと顔を見合わせ、小走りでセダンの後部座席に乗り込んだ。お姉さんも運転席に乗り込み、すぐにエンジンを掛けて発進させた。




