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ウィーク  作者: 宇佐見きゅう
酷虐の金曜日
20/26

不条理、、、な法

 何かを増やした分、何らかの代償が支払われ、何かが一つ減る。

 考えるまでもなく当然の摂理であった。

 忘れていたわけじゃなくて、ただ目を瞑っていただけだ。

 薄々気が付いていたのかもしれない。アキラのことを僕は覚えているけれど、あいつが僕の前に現れたのは、水曜日の午後だ。彼女の存在を思い出したのはあの瞬間だった。それ以前は完全に忘れていたのだ。えっと何だっけ? アキラは忘れていたことに関してこんなことを言っていた。高次元の存在に戻っていたから、記憶が抜け落ちていた、と。死んだら死体も影響も残らず消えるのは、クリアレスの特性でなくて、多次元世界の仕組みだとも言っていた。ようするに、他の次元界の存在は、認識することもできないし記憶することもできないということだろう。

 アキラは五次元の界の住人だと言っていた。水曜日に三次元界に存在を『落とした』ときに、僕の中でアキラの記憶がよみがえった。それより前は、僕の中にはあいつの存在は欠片もなかったのだ。

 今日もアキラが高次元に『上がって』、みんなの記憶から消えているだけだとは思わない。それなら僕も忘れているはずではないか?

 混乱してきた。考えれば考えるほど壷に嵌っていくようだ。

 殺人鬼お姉さんに巻き込まれて、ショタコン変態魔女に関わってしまったばっかりに、異なる歴史の流れに投げ出され、クリアレス――魔女の遣い魔との戦争に飛び込んだ。

その先で会った少女。角ツバメの群れと格闘していた戦士。五十嵐玲。

 僕に恋人はいない。確実にそう言い切れる。できるはずもないし、関係が続くはずもない。しかし、アキラのことを思い出したとき、僕はアキラとの関係を否定し切れなかった。僕の人間関係の中で、アキラだけは明らかに異質な存在だった。

 しかし、もし、あの瞬間に、アキラとの関係が確定したのだとしたら。

 アキラが、そういう関係を僕に信じ込ませたのだとしたら?

 今いるこっちの歴史ではきっとアキラは存在せず、水曜日と木曜日に迷い込んだ歴史の流れではアキラは存在していた。もしかしたら、僕とアキラが関わる歴史は、本来ありえなかったのではないだろうか?

「…………」

 いいや、どれもしょせんは仮説だ。これ以上証拠もないことを考えるのは止めよう。自分の領域を超えたことを考えていても切りがない。

 チャイムが遠くから聞こえた。

「……鳴ってしまったね」親友君の小さな声が聞こえた。

 気が付いたら僕は、廊下に立ち止まっていた。少し先で親友君がこちらを向いて僕を待っている。他の生徒は先に理科室に行ってしまったようだ。

「……あらま」

 自分がやさぐれていることを自覚し、僕は瞠目する。あらま。アキラが消えたことに少なからずショックを受けているご様子だ。どうしたことだろう。僕らしくもない。ウザッたいと思っていた相手が消えた途端に悲しむだなんて、素直になれないツンデレはとっくにブームは過ぎ去ったぞ? 

「……消えたり増えたり、忙しい世界だぜ」

 だいたい何だよ、多重次元界構造って。七次元の魔女? 歴史の書き換え? 意味深な単語を集めりゃいいってもんじゃないだろう。中二病かっ!

 この頃の不条理に八つ当たりして、すっきりした僕は動き出した。親友君は何も言わずについてくる。

 そうして理科室に到着。スモークガラスで中の様子は窺えないけど、話し声は聞こえる。授業はもう始まっているようだ。僕は引き戸を開けた。

「すみません、トイレに寄ってて遅れました」


 音もなく赤い雨が降ってきた。


 五感に刺激が一気に飛び込んでくる。まず真っ赤が目に付いた。理科室一面が真っ赤に染め上げられている。床も机も壁も窓もガラスも天井も黒板も換気扇も実験道具もシンクも金属棚も。あとあっちこっちに転がっている何だかよく分からない破片も、真っ赤な液体でべちょべちょに塗れていた。これだけの表面積を濡らすには何百リットルの赤ペンキが必要だろうか? 天井を塗らした赤い液体は、余った分がポタポタポタポタと垂れて来ている。染み出てくるように赤い雨は降り続ける。

 目の次に襲われたのが鼻と舌だった。刺激臭が鼻腔から入り込んできて脳を殴りつけた。濃密な鉄錆の臭いは鼻の中を通って口まで回ってくると、舌に生臭さとエグみを感じさせる。煮詰めたケチャップの味を一瞬だけ錯覚し、すぐに腐敗臭と汚物臭のミックスしたものに変わり、嘔吐感が込み上げてくる。

 むわっとした生臭い風が、室内からこぼれてくるのを全身の皮膚で感じ取り、最後に痛いほどの無音を感じた。鼓膜を引き伸ばされた鋭敏な耳に、無音の針が叩きつけられる。その針は鼓膜を傷つけずに通過し、三半規管を麻痺させる。

 目の前の光景が歪み、僕はまっすぐ立っているだけなのにその場に転びかけた。思わず床に手を着いた。僕の掌は、真紅な海の底に触れる。指先に感じた固形物は、数センチの長さに刻まれた、誰かの小指だった。

 数秒間目が眩んで、次に目を開けたときには、僕は理科室の中を正確に認識した。

 なーんだ、よく見たらあちこちに転がっているのって、人間の残骸じゃん。

 大勢の人間だったものがぶちまけられているだけだ。徹底的に隙間という隙間に血を塗りこんだ執拗さはとてもではないが人業ではない。この現場には妄執的で使命的で、子供の悪戯心が混ざっている。

「大丈夫、親友く……」僕が振り向くと、親友君は廊下に倒れて気絶していた。親友君の精神力でも受け止め切れなかったか。まあ、普通気絶するよね。人間には精神を守るためのそういう防衛機能が備わっているのだ。

 理科室内に向き直ったら、血みどろの景色の中央に真っ赤な女子が立っていた。セーラー服を真っ赤に染めて、僕の方に血塗れの顔を向けてくる。目を離す一瞬まで、室内には『無事』な人間は一人もいなかった。いつの間にか現れたのだろう?

 少女は、血塗れの顔に満面の笑顔を浮かべた。口元に覗いた白い歯が、赤一色の室内で不気味に浮いていた。

「見ぃーつけたぁー♪」

「見ーつかったー」僕はおどけてお手上げした。

 やれやれ。殺人鬼お姉さんが改心したからスプラッタシーンはもう来ないかと油断していたら、この様だよ。行き過ぎた猟奇は、ホラーをコメディに変えるという法則を知らないのかな。ほどほどがいいんですよ、ほどほどが。

 僕は両手を上げたまま、少女に尋ねた。

「えっと、どちら様でしょうか」

「えええー? もう忘れたの? ありえなくない? 私だってば。同じクラスメイトなのに冷たいな」

 きゃぴきゃぴと言い返され、僕は相手の顔をよく観察した。

「……これは君がやったの? 委員長」

「そうですとも!」クラス委員長、鏑海音は胸を張って言った。

「どうして?」

「どう『やって』って聞かないんだね。余裕ぅ~! 君が理科室に来るまで実行するの待ってあげたんだー? 話し声聞こえたでしょ?」

「魔女?」僕は聞いた。

鏑海音は屍肉の園で目を光らせ、無邪気にはしゃいだ。

「そうねそうだよそれしかない。その呼び方が今の鏑海音に一番近しい。私は鏑矢の魔女でーす。じゃあ私の用件は分かるよね復讐と仕返ししかないよね。あと暇潰し? ベヒモスたんのやり返しでっーす!」

「自分から色々と喋ってくれるのは助かるよ。君たち高次元の住人って段階を踏むという言葉を知らないのかな。まずは話し合い。それからでしょ?」

「控えあろう。私にタメ口など。貴様と私は生きている年数が千倍は違うのだぞ。敬え敬えっ! 何ちゃって!」

「駄々っ子のロリババアかよ……。魔女に普通の奴はいないのか?」

 辟易しつつ、僕はそっと顔を逸らした。そろそろ凄惨な光景に耐え切れなくなってきた。狂人の前だから強がっているが、僕の正気度も無限ではない。

「何が目的だ? 僕の命か?」

 僕が聞くと、海音は顎に人差し指を当てて、んー、と洩らした。

「そういうんじゃなくてね。色々目的があるんだけど。サカノ君を殺す気はないよ。クラスの三十名プラス理科の先生一名を挽き肉花火にしたのは、挨拶にはインパクトが必要かなあー、と思ってだよ」

「…………」

「きゃはっ。恐ーい」

「……目的ってのは?」

「うん。私ぃ、素手で世界を壊しにやってきましたぁ♪」

 海音は、しっとりと妖艶な笑みを浮かべた。

 僕は、無意識の内に後ずさっていたようだ。廊下の壁に背中を付けていた。

 海音が慌てて、手を振る。

「ああっ! そんなに警戒しないで。君は殺さないし。私は飼い殺しが好きなの。あなた、私のペットにならない?」

「……おこと、わりだ」僕は、何とか言い返す。眩暈がしてきた。

「ええー? どうして? ペットって聞いて悪い印象を感じるだろうけど、これでも最大限譲歩しているのよ。上から目線になるのも。次元の格差があるから仕方がないことなんだって。サカノ君も、真っ白な紙に落ちた一滴のインクに向かって、友達になりましょうって言える? 平等に扱うなんてどうやっても不可能ですの。ご理解?」

「それ……、馬鹿みたいな喋り方、だな」膝から力が抜けて、僕は壁にもたれて座り込んでいく。「サカノ君と呼ぶな。君にそう呼ばれる筋合いは、ない」

「言い方を変えましょう」海音は掌を合わせた。「あなた、この世界を捨てて、私のものになってくれない? もっと上位の存在になるの。君だったら、私の助力次第では六次元の存在にもなれる。あなたにはその素質がある」

 上位とか六次元とか言われても、そのスゴさがピンと来ないんだけど。僕はそう言いたかったが、口を開く気力はなかった。視界がチカチカと光って気持ち悪かった。

 無言になった僕を見て、どう受け取ったか知らないが、海音はクスリと笑いを零した。嘲笑でも冷笑でもなく、可愛らしい微笑みだった。それが僕には気持ちが悪い。

 海音はくるりと回り、返り血を浴びたスカートを回す。

「断ってもいいよ、逃げても構わない。私がやることに変わりはないし、『やったあと』のことは覆せない。君がどう足掻いても無意味無意味。私を仕留めないことにはね。どうせだからサービスアドバイスを一つ差しあげよう。もし、私を殺したいなら早めにした方がいいよ。早くしないと『事実』が固定されちゃうから、クラスメイトたちはずっと死んだままになるよ。葉山隼人から始まって、鈴木江美で終わる二年一組の三十人は、謎の猟奇殺人鬼に殺されたままで終わっちゃうよ」

 海音の笑みを含んだ声が遠ざかる。

「――どう? 殺る気出た?」

 そんな言葉を聞いたのを切りに、僕の意識は落ちていった。

 暗闇の中で色んな夢を見た。

 無限に落ち続ける落とし穴。

 指一本動かせない灼熱の棺桶。

 コリコリコリと耳の中で響く異音。

 全身を羽アリが這い回る感触。

 ズルズルと腸を引きずってさ迷う密林。

 ぽつぽつと夜道を照らす街灯。

 永遠に終わらない幼子の絶叫。

 静寂の監禁。

 光の届かない海の底。

「…………」

 次に僕は目を覚ましたのは病室のベッドの上で、脇の椅子には母が座っていた。僕は起き上がろうとしたけど、母に無言で制された。僕は横になったまま、時刻と現在地を母に尋ねた。今は午後四時三十六分。ここは病院の病室だという。親友君のことを聞くと、彼は別の病室ですやすやと眠っているらしい。どうやら僕と親友君は廊下で気絶しているのを発見されたあと、中学校から一番近いこの病院に搬送されたようだ。

 僕が目を覚ましたので、母がナースコールを押して医師を呼んだ。初老の男性のお医者さんに簡単な問診を受けたあと、すぐに入れ替わりで、強面の男性二人が病室に入ってきた。スーツ姿の二人は母に退室を促したが、母は無言で見つめ返した。折れたのは男性たちの方だった。

 その二人は刑事だと名乗った。名前もそれぞれ名乗っていたが、ぼんやりした僕の頭は聞き流した。二人の刑事は次々に僕に質問をぶつけてきたが、僕がまともな返事をしたとは思えない。そこの記憶も曖昧だ。

 誰か見たか。何か見たか。君たちはどこにいたか。何があったのか。どうやったのか。犯人に心当たりはないか。彼と彼の関係はどうだったか。彼女と彼女の仲はどうだったか。音は聞いたか。声は聞いたか。誰かと会わなかったか。最後に話したのは誰か。何かおかしい様子はなかったか。何かに触ったか。君たちはどれほど遅れて理科室に行ったか。

 曖昧で抽象的な質問を何度も聞かれたが、僕は一度としてまともに答えなかった。三十分ほどして初老のお医者さんが入ってくると、二人の刑事を出て行かせた。

 初老の医師が出ていき、再び病室に僕と母だけになった。

 母は何も聞いてこなかった。心配するようなことも言ってこなかった。ただ静かに僕を見つめてきた。お互いに口を利かないで一時間が経ち、午後七時を回ったとき、母は腰を上げ、「寝なさい」とだけ伝えて帰っていった。

 母が帰ってから、看護師さんが何度か体温と血圧を測りに来た。夕食は辞退させてもらった。とてもではないが、今は何かを食べる気がしない。病院の消灯は十時だと看護師さんに教えてもらった。

 十時になり、パチンと病室の電気が消されたのと同時に、僕は目を閉じた。

 大変な一日だった。電源を切るように一瞬で眠りたい。

 次に目が覚めたら、ごめんごめん全部夢でした、とかないかな。

 ないよな。

 とりあえず明日は鏑海音を殺しに行こう。うん。





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