彼女が消えた教室
たまには真面目なことを考えようと思った。
しかし次の瞬間には、我ながら今日も寝惚けているなあ、と思った。真面目に考えることができるならもうそれって起きているのと同じじゃないか。僕の持ち味はトチ狂ったことを大真面目に考えるところにあるというのに、言うに事欠いて『真面目なことを考えよう』とか……。どうせ僕の考える真面目なんて、地球温暖化について子供の内にできることがあるはずだよなー、とか、よくも知らない世界の紛争地域や貧困の問題を他人事だとは思っちゃいけないよなー、とか薄っぺらなこと考えちゃったりして、充分な意欲もないくせに、ろくすっぽ回転しない脳みそを回すことだろうに。実行に移すことのない善意に自分でイライラしては、「問題意識を持たない奴らよりはマシ」と言い訳して自分の無駄な思考を正当化するのだ。まあ、何を考えようが、その人の自由だけどね。結論の出ない論題を延々と考え続けることができるのも若いって証拠だ。
さて、年相応のことを考えてみようか。しっかし、中学生の悩みって何があるだろう。学業? 恋愛? 人生? 不真面目を地で行く僕だけど、今のところ学校の成績に問題はない。恋愛に関しては語るに落ちたというか、そんな緩慢な精神構造をしていない。跳ねっ返りの、捻くれ屋にして、人間不信と、ハットトリックを決めてしまっている僕が、異性を好きになったり、好きになられたりとかありえない。告白されたのはアキラが初めてだったし、そのアキラの好意さえも僕は突っぱねている状態だ。
「五十嵐君を逃したら、君は一生恋愛をすることなく、その人生を終えることになりかねない」と親友君にも注意されたことがあるけど、恋愛に関しては親友君の指図は受けない。他人を好きになれない心の病もあるみたいだし(うろ覚え)、たまには僕みたいな例外がいてもいいんじゃないかなと思う。
……いやまあ、言い訳が必要なくらいには、アキラが僕にとって特別な人間ではあることは否定しない。僕の周囲にはあまりいないタイプだしな。……おっと、これ以上掘り下げると危険物が発掘されそうなので、このテーマを考えるのを止めよう。
せっかくだから、もっとプライベートなところに視点を向けようじゃないか。
そうだな、例えば将来の夢とかどうだ? 僕が意外な夢を言い出したら、僕の印象も変わるんじゃないのか? プロのサッカー選手、はないな。アスリートはないわ。そこまで身体能力に自惚れられないわ。宇宙飛行士……これはどこから出てきた候補だ? 微塵も思っていなかったぞ。格好つけるために宇宙飛行士になりたいと言うのはありなのか? じゃあサファリパークの飼育員。……おおっ? なかなか良いところ突けたか? サファリが無理でも、動物園や獣医、ペットフード店の店員も選択肢に入るし、方向性としては悪くない。動物は(人間と違って)素直だから好きだ。誠意を持って接すれば(人間と違って)ちゃんと愛情を返してくれるし。幼い頃に家族で行った動物園で見た、雄々しく歩くアフリカゾウの勇姿が、まだ僕の脳裏に残っている。あの感動を大人になってもう一度だ。……うわっ、バス旅行の上野動物園めっちゃ楽しみだ。
「……ッてッ!」
ガツンッ! と強めの一発を顔面に食らった。
痺れる鼻梁を押さえ、僕はお星様が明滅する両目をゆっくり開いていく。ベリリ、と丸い金属の板が顔から剥がれて、遠ざかる。鉄のフライパンを構えた母が、寝ている僕を跨いで仁王立ちしている。
「……おはよう」僕は、何とかそう言った。
母は満足そうに頷いて、フライパンを下ろし、僕の部屋から出ていった。
今日も叩き起こされてあげた僕だった。叩かれると分かっていて、毎日ギリギリまで布団の中で粘るのは、端から見たら阿呆そのものだろう。早起きの生活に改善すれば、フライパンの脅威から脱せれるわけだが、もうこれが朝の習慣になっていて、これがないと一日が始まらないようが気がするのだ。それに、ほら、母さんって僕の顔をフライパンで叩くのが生き甲斐なところあるから。寝坊するのも一種の愛情表現というか、親孝行なんだよね。
叩かれすぎてとうとう狂ったことをのたまい出した頭脳は放っておいて、僕は制服に着替えた。一階に降りていき、小用を済ませ、洗面台の前に立つ。
鏡に映った顔の真ん中。鼻が赤くなっている。真っ赤なお鼻の僕さんだ。毎度毎度叩かれているのに鼻の骨が折れたりしないのは、僕の骨が頑丈だからか、あれでも母は手加減しているからなのか。いや、それでもまったく許さないけどね?
「今日でもう金曜日かー……」
今週も終わりだと思うと感慨深いものがある。ところどころ濃密で、印象的な一週間だった。まだ明日があるけど、でも週末って消化試合なところあるよね。試合といえば、明日練習試合があるんだった。今週一回もサッカー部の練習に行ってないや。あちゃー、こりゃ明日の試合、出させてもらえないだろうな。
朝ご飯はポークピカタだった。豚肉のひれ肉を卵に浸して焼いた料理だ。朝から豪勢だな。何かいいことあったのかな?
「……肉かぁ」新聞からポークピカタに目を移した父が憂鬱そうに、呟いた。
母の基本方針は、嫌なら食べるな、である。おかずに不平を言おうものなら無言で回収されて、三日間おかずのない食卓が続くことになる。あとで謝罪しても遅く、やること為すことがすべて極端な母は、一度下した判決を曲げることはしない。そんな母との生活はいつだって緊張の連続だ。
僕としては朝からお肉は嬉しいので、ぺろりと平らげた。
「お父さん、最近、大きな事件起きてる?」
「どうかな……。政治や国際情勢は大きく動いているが、お前にピンと来る話じゃないよな。どこどこが海外の企業に買収されたとか興味ないだろ。セブンがコストコに吸収合併されたら驚くかもしれないが……」
「そういうんじゃなくて、殺人事件とか泥棒とか、この辺で起きてない?」
父はきょとんとした顔で言う。
「殺人はないな。泥棒だったら、この前お前が捕まえたじゃないか。近所の家に入ってたのを。ああ、そういやあれ、記事にならなかったな……。泥棒なんてどこも珍しくないのかな」
「珍しい、とは思うけど。ごちそうさま」
僕は席を立った。考えたいことが出てきた。
二階の部屋からカバンを取ってきて、僕は家を出発した。七時四十八分だった。
自転車で下り坂を降りていく途中、乗り心地に違和感を得る。いつもより伸びが悪い気がする。坂を降りきってから信号で停まって、僕は自転車を降り、前輪と後輪のタイヤに触れて確かめる。後輪のタイヤが潰せるくらい柔らかかった。このまま乗り続ければ後輪の空気は抜け切ってしまい、完全に乗れなくなる。そうなってからでは手遅れだ。
僕はここで、三択の選択肢を迫られる。
自転車を転がして学校まで歩いていくか、一度帰宅して後輪に空気を入れ直すか、パンクを覚悟で行きだけでも自転車を乗るか。
「もっと早くに気付きゃよかった……」
迷っている暇はない。こうしている間にも遅刻のタイムリミットは近付いているのだ。一度帰宅するのは無難な選択に思える。だが、後輪のパンクが致命的だったとき、この選択が一番痛い。空気を入れに戻ったのに、空気を入れた意味がなくなるからだ。時間を消費しただけになる。
「……これしかない」
第四の選択肢を思いつき、僕は一度帰宅することにした。
第四の選択肢とは、自分の足で走ること。これならタイヤがパンクしていようが関係ない。僕は全力で走れば自転車にも負けない自信がある。だけど、カバンを背負ったままでは最大速度は出せないから、カバンは家に置いていくことになる。本末転倒な気もするけど、これが遅刻もしない、自転車も傷つけない最善策のような気がした。教科書? 内容をすべて覚えている親友君に頼み込んで貸してもらう。ノート? 元々使わない主義。筆記用具? 忘れ物ボックスにいっぱい落ちているだろ。よし! 完璧! 親友君が今日欠席していたら終わりだけど!
家に帰った僕は、自転車を車庫にしまい、家の中に入る。
「ただいまー」
「おかえり。どうした、忘れ物か?」父がこっちを見て言った。
「あ、うん」僕は玄関先にカバンを下ろし、身軽になってから再び出ていく。「行ってきまーす」
「いや待て」父が止めてきた。「どこに行く気だ、お前」
「どこって、学校だけど……。他にどこがあるの?」
父が、僕とカバンを交互に見て首を傾げる。
「学校ってお前……、カバンを置きに戻ってきたのか? どうして」
「どうしてもこうしても、カバンって重くてかさ張るから」
「フリーダムだな。教科書とか筆箱は? 要らないのか」
「お父さん。背に腹は変えられないんだよ」
「いや、教科書と筆箱って、一番重要なものなんじゃ……」
「どうかなぁ? 一番重要なのは、僕たちの、学ぼうとする姿勢じゃないかな?」
「立派だ! 積極的に忘れ物しようとしている奴のセリフとは思えないな!」
朝から元気のいいツッコミをする父だ。何か嫌なことでもあったから自棄になっているのかな。母から遠回しに嫌がらせされているとか。
「とにかく、行ってきまーす」
これ以上付き合っていたら本当に遅刻するので、僕は父を振り切って出発した。
下り坂を駆け下りていき、速度を殺さずに平面の道路でピッチからストライドスタイルに切り替える。制服は少し走りにくかったが、良い調子のペースだ。腕も足ものびのびと躍動してくれる。カバンがあるとないとでは全身の重荷がこんなに違うとは。制服じゃなくてユニフォームだったら、もっと速度が出せるんだけど、着替えている暇はないし、そこまでやっちゃったら本当に中学校に何をしに行くのか分からなくなる。制服はほら、人に貸してもらうことはできないし。
交差点の青信号が点滅している。足を速めたが、僕が渡ろうとする目前で、あえなく信号は赤に変わってしまった。ええいままよっ! と僕は足を緩めずに、左右の自動車が走り出す前に無理やり渡ろうとした。
ププーッ! と横の車にクラクションを鳴らされて、僕は飛び上がる。クラクションを鳴らした車は赤信号で捕まった黒いセダンカーだった。
サイドガラスが開いて、運転席に座っている若い女性が顔を見せた。
「少年、信号無視は感心しないな。ちょいと見過ごせないよ」
若い女性は、立ち止まった僕を見て、笑いかけてきた。僕は額に浮いた汗を拭って、女性の顔を見つめ返す。一瞬誰だか分からなかった。笑っていたからだ。女性の顔には見覚えがあった。
向こうも僕の顔を知っていたようで、目を丸くした。
「誰かと思えば、少年君。君はこの間、犯人逮捕に協力してくれた少年じゃないか」
「犯人逮捕?」僕は首を傾げる。そんな記憶はないけど。
「もう忘れたのか? 日曜日に泥棒を捕まえてくれたじゃないか。ちょっと過剰防衛だったかもしれないけどな」
「泥棒を捕まえたって……、ああ」
朝に父がそれっぽいこと言っていたな。僕が泥棒を捕まえたって。この歴史じゃ泥棒の老女は殺されなかったのか?
運転手の女性は信号が青になったのを見て、僕の方へ言った。
「乗ってきなよ。急いでいるんでしょ?」
「え? 乗せてってくれるんですか?」思ってもない提案に僕はびっくりする。
「そういうこと。早くしないとまた信号が赤になっちゃうよ」
「はあ……。それじゃあ、甘えさせてもらって」
車ならここから五分も使わずに学校に着けるだろう。断る理由はなかった。僕はこの人に会いたくて、過去をリセットしたようなものなのだから。
「それじゃあ、学校までよろしくお願いします。お姉さん」
僕はいそいそと、自動車の助手席に乗り込んだ。
快活で、まともに会話してくれて、性格も丸っきり違うけれど、声を掛けてきたその女性は、どうしようもなく殺人鬼お姉さんだった。
僕が乗るのが早いか、自動車は発進した。それとほぼ同時に青信号が黄色に変わった。殺人鬼お姉さんはアクセルを踏んで、信号を通過する。
「はっはっは、ギリギリセーフ。それで、中学校目指すんでいいのかな?」
「はい。お願いします」僕はシートベルトをしながら答える。
「何の何の。市民が困っていたら手を貸すのも公務の一つだ。登校中? だよね。どうしてカバンを持ってないの?」
「人には色んな事情があるものですよ。話せば長いんですが……」
「あっそ。じゃあいいや」お姉さんはさばさばと会話を終わらせた。
僕は消化不良を感じる。
……うーん、この人、本当に僕の知っている殺人鬼お姉さんと同一人物なのかな。双子の姉とか、ドッペルゲンガーとか、そういうオチだったらどうしよう。でも僕とこのお姉さん、面識があるみたいだし、泥棒のことも知っていたし。
同じだけど、まったく同じでもない。こっちではお姉さん、どういう立場なんだろう。前が殺人鬼だったから、今度は詐欺師かな? 誘拐犯かな?
「泥棒のおばさん。今回は殺さなかったんですか」
「え? ごめん、何て言った?」お姉さんが聞き返してきた。
「何も言っていません」僕はとぼけて首を振った。「殺人鬼お姉さんこそ、どうしたんですか? 今日は随分大人しいですね」
「非番だけど。え? 殺人鬼お姉さんって何それ。私の目つきが殺人鬼みたいに鋭いってこと? マジか……、それってただの危ない奴じゃん」
「僕の中ではずっと危ない印象でしたよ。非番ですか?」
「そ。非番って意味分かる? お仕事がお休みってこと」
「そんなの知っていますよ。お姉さん何者でしたっけ」
「刑事課の警部補。キャリアだけど全国を転々としています」
「警察官ですか」僕は驚きを飲み込んだ。
彼女は、今日もいつか見た黒のパンツスーツだった。目つきの悪さは変わっていない。髪は背中までまっすぐ伸びた黒髪。外見はまったく一緒。でも中身が正反対。
もうそろそろ学校に着いてしまう。五分なんてあっという間だ。僕はもっと他に聞くべきことがないか考えてみた。
「全国を転々と、ってのは?」
「警察の仕事に興味があるかい? 私の仕事はちょっくら特殊だから一般市民には話せないんだ。ごめんねー」
「泥棒のおばさんは、お姉さんの管轄だったんですね?」
「うぐっ」とお姉さんが息を詰める。「さ、さーあ、何のことかな~」
ガード甘いなぁ、殺人鬼改め刑事お姉さん。
僕は、今はもうなくなったのであろう『火曜日』のことを思い出して、刑事お姉さんの行動目的を想像してみた。
「指名手配できないタイプの犯人を追って全国を転々しているとか、そんな感じですか? それで、この町にはもう一人、そのタイプの犯人が潜んでいる」
「……あっはっはー。ち、ちみは何を言っとるのかなー。想像力豊かだなー、最近の子は。お姉さん参っちゃうなー。あ、あはは。……あっ、参っちゃうといえば、この前朝っぱらにガス欠起こしちゃってね。いやー、あんときは焦ったー。あははははっ」
「…………」
惚けるの下手だなおい! うーむ、調子が狂うな。子供をいじめている感じがしてやりにくい。僕ってピュアな人が苦手なのかな。
「『存在しない人物』。お姉さんが追っているのって、異世界の住人ですよね」
「ぁつわあわわ!」お姉さんがテンパって、車が蛇行する。
走行速度を緩めてから、お姉さんは、にこぉーと笑みで僕を睨んできた。
「あれー? 私そこまで口滑らせてたっけ? おっかしいな。少年君とは会うのこれで二度目な気がするんだけど、話すチャンスあった?」
……おっと危ない、踏み込みすぎたか。
僕はフォローできる材料がないか、頭を回転させる。
「僕のクラスに鏑って子がいるんですけど、父親が刑事さんらしくて、その子から聞いたんですよ、お姉さんのこととか容疑者の名前とか」
僕は咄嗟に委員長を出汁に使うことにした。委員長の名前は鏑海音だ。昨日のバス旅行の班決めの際にその名前を知れたのは幸運だった。
「あー、鏑警部の娘さんと同級生なんだ。そゆこと」とお姉さんは納得した。
筋が通れば何となく納得できてしまえるのが人である。本当は僕、委員長と話したことないし、彼女の話を盗み聞きしただけなんですけど。
「同僚の情報を漏らすってのはいただけないな。家族が相手とはいえ……。でも可愛い娘に聞かれたら仕方ないのかな?」
ブツブツ呟いていたお姉さんは、口をへの字にする。
「誰にも言わないでね。ほんと、私の首が飛ぶから。そらもうポーンと」
「分かってます。安心してください。僕は口が堅いです」
そもそも話す相手が親友君くらいしかいないから。
「それならいいんだけど」お姉さんは横目で僕を見てきた。
車が停止した。中学校の校門前だった。校内に駆け込んでいく生徒たちの姿が見える。
「どうもありがとうございました」
僕は運転席のお姉さんに会釈して、自動車を降りた。サイドウインドウが開いて、お姉さんが片手を軽く振ってくる。
「それじゃあ少年君。また会おう」
そう言い残して、自動車は走っていった。僕は急いだ。余計なカバンを持っていないお陰で軽快に走れた。校門から教室までいつもは五分くらい掛かるのだが、今日は三分以下で着いた。驚異的なタイムだ。来週からこの方式を採用しようかな。教科書は全て置き勉するパーフェクトフリースタイルだ。ネーミングがダサい以外は素晴らしい。
教室に入った僕は、まず親友君の席を確認した。理想的な姿勢で読書している親友君がいた。親友君の方も戸口に突っ立っている僕に気付き、軽く片手を挙げて、そのまま読書に戻っていった。
チャイムが響いて、僕は自分の席に歩いていった。窓際の列の一番前が僕の席で、その後ろが委員長の席だった。委員長のところに集まっていたバレー部女子と図書委員女子が急いで自分の席に戻っていく。
「鏑さん、おはよう」僕は委員長に挨拶した。
「……え? あ、うん、おはよう」どもった挨拶が返ってきた。
うんうん、この席順になってから一度も口を利いたことない男子からいきなり挨拶されてもきちんと返してやるなんて、委員長は心が広いなあ。
あと委員長、勝手に名前を使ってごめんね。お陰で助かったよ。
そう言って謝ろうと思ったけど、いきなり言われても彼女には事情が分からないだろうし、これ以上困惑させても可哀想だ。何も言わずに僕は着席した。
すぐに担任の先生が入ってきた。頬杖を突いていた僕は、あれ? と首を傾げて、教室内を見渡した。そう言えばアキラの姿を見ていない気がする。アキラの席は真ん中の列の一番後ろ。そこは空席だった。昨日元気だったのにどうしたのだろう。
担任がきょろきょろと落ち着かない僕に目を付けた。
「どうした。ちゃんと前向け」
「はい……」
僕は気の抜けた返事をして、顔の向きを戻した。アキラは単に遅刻しただけだろうと思って、気にしないことにした。
担任が出欠席確認を始めたとき、僕は、驚くことになる。
五十嵐の名前が呼ばれなかったのだ。いろは順に生徒の出席を取る担任が、アキラの苗字、「五十嵐」を飛ばして、「葉山」から呼び始めた。クラス全員の名前が呼ばれていく中、とうとう最後まで「五十嵐」の名前が呼ばれることはなかった。
出席を終わらせてから、担任はクラスを眺めてこう言った。
「おし。今日も欠席なし、三十三人全員来ているな。いいことだ」
担任はそのまま連絡事項を知らせて、あっさりと教室から出て行った。
一時間目の授業は理科で、理科室での化学実験だった。教科書を抱えたクラスメイトたちが教室を出ていく。僕は何も持たないで、ふらふらと彼らについていった。廊下を進みながら親友君の隣に追いつく。
「おはよう。親友君」
「おはよう。今日は一段と辛気臭い顔をしているように見えるが、どうした?」
「親友君。今日、教科書忘れちゃったんだ。貸してくれないかな」
「お安い御用だ。理科だけか?」親友君は、理科の教科書と参考資料を手渡してきた。
僕はそれを受け取ってから言った。「いや、今日ある授業全部。理科、国語、公民、体育飛ばして、家庭科の四つ」
「任せたまえ」僕の甘え切ったお願いに二つ返事する男前な親友君。「一日の全教科忘れるとは、君らしい忘れ方だ。曜日を間違えたか?」
「カバンを家に置いてきたんだ。ところでさ、僕たちのクラスって何人だっけ?」
「三十三人だ。三十三間堂と掛ける教師も多いが、僕としては三十三観音の方が相応しいのではないかと思っている。三十三観音の話を君にしたことがあったかな?」
「いや、その話はあとで聞かせてもらうよ。じゃあさ、五十嵐玲って子を知らない? もしくはアキラって」
「存じ上げない」親友君はきっぱりと答えた。「芸能人の名前か?」
「…………」
「……ふむ。貴重な表情をしている。質問は以上か?」
「以上だよ」
僕は言い返した。
そのあとは黙って理科室に向かった。




