終末の獣の簡単な倒し方
「…………」
何が何だか分からないまま、僕は間抜けに喉をさらして見上げていた。さっきまでカラオケボックスの個室にいたはずなのに、いつの間にか周囲は瓦礫に囲まれ、ピンクの物体に上空を覆われている。辺りは薄暗い。右の瓦礫の山が豪快に弾け飛んで、その下からアキラが飛び出てきた。
アキラは僕の方を確認してから、空の物体を睨みつけた。
「……ベヒモス……ッ!」
「あれを知っているのか、アキラ」
僕は尋ねた。だが、アキラは絶句したまま答えられずにいた。
「……聖書に出てくる怪物の名だな」
親友君がぱちりと目を開いて言った。
「聖書?」僕は親友君の上から退いた。
親友君は身を起こして答えた。
「世界を食らい尽くすと言われる終末の獣だ。その大きさは大陸に匹敵するという」
「大陸、ね……」僕は、大空を覆いつくす巨大生物の腹を見上げて頷いた。「幸いなことに、大陸よりはまだ小さいかな」
向こうに見える桃色の壁は、ベヒモスの脚部だろう。その直径が目測で中学校の校舎と同じくらいに見えるから、三百メートルほどか。その脚が天空の腹まで続いている。脚の長さの方は脚の直径と同じくらいで、短足に見えるが、その分胴体が膨らんでいそうだ。ベヒモスの全長ともなると、どれほどの大きさなのか見当も付かない。
「親友君。あれ、どのくらいの大きさが分かる?」
「ふむ?」親友君は首を傾げて、目を細めた。
ああ、そうか。彼にはクリアレスが見えないのか。
僕が納得しかけたところ、親友君は口もとに奇妙な笑みを浮かべて答えた。
「……あれとは、薄ぼんやりと空に見える透明な皮膜のようなものか? 僕にも見える」
「見えるんだ」
何となく、彼にも見えることが恐ろしい予感がした。
「あのサイズだと……、おおよそ二・五キロメートルから三キロメートルほどだろう」
「ふうん」と僕は生返事。
ピンと来ないなぁ、でか過ぎて。
「十個の東京タワーが横になっていると考えるといい」
「日本一の座を譲ってしまったタワーで例えられてもねぇ」
「シロナガスクジラの百倍だ」
「でか過ぎんだろ!」
僕は絶叫した。
そのでかさを実感したことで、ベヒモスのやばさを理解する。うん、どうも桁違いすぎて自然に逃避していたようだ。誰だってそうなるでしょ。一センチメートルに満たないアリが十両編成の電車を見上げているようなものだ。
「アキラ」
僕は、不動のベヒモスを睨みつけているアキラに呼びかけた。
「何だい。いくら私でも今は軽口には付き合えないよ」
アキラはこちらを見ずに返してきた。彼女は蒼白状態だった。
「奴の姿、親友君の目にもうっすら見えるみたいだけど、これってやばい状況だよな」
「うん。ものすごく。ベヒモスってだけでもかなりやばいのに、やばさの二乗だね」
「具体的にどうやばい?」
「親不知君にも見えるのは、第三次元界への干渉力が高まっている証拠。さっさと倒さないと、仮にベヒモスを倒せても、ベヒモスの死体がこちらの世界に残り、その破壊等の影響も残り続ける。そして、ベヒモスが召喚できたということは、魔女の計画が最終段階に差し掛かったということになる。これだけのサイズを召喚するには、それ相応のサイズの『通路』が必要になる。私たちの予言ではベヒモス級のサイズの『通路』を作るには、あと四万三千二百年掛かるはずだったのに……。魔女が力尽くで押し広げたのか、三次元界の境界に綻びが生じてしまったか。どちらにせよ最悪だ。そして、単純にベヒモスの強さ。誰もあんなの倒せるわけがない」
「つまり、絶望的状況?」僕は聞いた。
「絶望そのもの」
アキラは端的に言った。
なるほど。分かりやすい。分かりやすいのは好きだ。
ベヒモスは眠っているように動かない。一歩動いただけで大惨事を引き起こせる巨体だ。できればこのまま動かないでいて欲しいが、こうして佇むだけでも恐ろしい。
「ベヒモスは主人が光臨するのを待っているんだ。命令がない今の内が、遣い魔を倒せる唯一のチャンスだ」
「あいつが暴れ出したらと思うとぞっとするな。ちなみに、あのベヒモスを倒すのと、原因の魔女を倒すのとどっちが難しいんだ?」
「魔女を倒す方が難しいに決まっているじゃん」
事もなげにアキラは答えた。
「あっそ……。っで、どうするの? 勝ち目がないなら逃げてもいいんじゃない?」
「打つ手は……ある。一つだけ」
「あるんだ」
準備がいいなあ。でも、一つだけと言われると、とても不吉な予感がするのだけど。
神話の怪物を仰ぎながら、アキラは目を瞑って言った。
「――これが、悪い夢だって思い込むの、さ」
「っそれは現実逃避だッッ!」
僕は全力で叫ばざるを得なかった。
思わせぶりに覚悟を決めるように言っておいて、なんちゅう弱腰な秘策だ。気持ちは分かるけど色々と残念だよ、期待していたのに。
だ、だって、とアキラは涙目を浮かべる。
「無理だもん無理だもん! 神獣クラスを出されてどうしろっていうんだよ! 片足をちょっと持ち上げて下ろすだけで私たちなんかペチャンコだよ! 終わりだよこんなの! 日本終わったぁー! うわーん!」
「駄々をこねるなよ……。こっちのやる気まで削がれるわ」
経験豊富な戦士が幼児退行して使い物にならなくなったので、僕は天才の彼に頼ることにした。やはり最後は知能と度胸勝負。持つべき友は天才だ。
「親友君、いい作戦ない?」
ソファの上のコンクリの破片を片して、優雅に座り直していた親友君は微笑む。
「また漠然とした質問を投げかけてくる。僕の目にははっきりと対象を認知できていないことを忘れてはいないか? 幸運なことに認知できていないから、恐怖を感じずに考えることができる。勝てないのなら、勝たなくていい」
「戦うなってことかい?」
「わざわざ戦うまでもないのだ、怪獣など。いいかい、これから僕の言うことをしっかり聞いて、信じてくれ。全部本当のことだから」
「え? いや、信じるよ? 親友君が嘘をつくはずないし」
「ああ、僕も君が素直に信じてくれることを信じている」
親友君は目を細めて、上空を見上げる。
「全長二・五~三キロメートルで、脚部は直径三百メートル。四脚歩行で、ベヒモスという名前からして体型はカバに酷似していることだろう。すると横幅は一・七~二キロメートルほど、背の高さは二キロメートルほどのサイズがイメージできる。――間違いないか?」
「んー……?」
ベヒモスの図体を観察してみると、確かにそんな感じの体型に見えてくる。段々とカバのようにしか見えなくなってきた。後ろから親友君の声が聞こえる。
「全長三キロメートル、横幅二キロメートル、高さ二キロメートル。すべて概算だが、この場合のベヒモスの質量は、同体型の通常サイズのカバが全長三・八メートル体重二・五トンでそれを比例して考えると、およそ七八九の三乗×二・五トン。十二億五千万トン。それを支える四脚がたったの直径三百メートルだと? ――そんなの、自重で折れてしまうだろう」
「折れてしまう?」
僕は繰り返した。
その瞬間、天上から、ピシリッ、と割れるような音が響き、ピンク色の空がゆっくりと落ちてきた。ベヒモスの胴体が落ちている。地上からはゆっくりに見えるが、サイズが桁違いだからそう錯覚して見えるだけで、実際はもっと速いはずだ。
まっすぐ伸びていたベヒモスの脚の表面がたわみ、脚の長さが縮んでいく。自身の重さに耐え切れなくなって潰れているのだ。脚部の表皮を破って、紫色の肉が飛び出てきた。バナナに圧力をかけるとこんな感じに身が出てくるのを僕は思い出した。
落ちてくる速度はよく分からないが、このままだとベヒモスの胴体プレスで町が押し潰されてしまうのは確実だろう。僕たちもただで済むとは思えない。
のん気に怪物が落ちてくるのを見上げていた僕に、親友君の声が掛かった。
「ほらほら、早く逃げなければだ。立ち止まっている暇などない。故郷のひとつやふたつくれてやれ。まだまだこの場所は壊れる予定なのだから」
「はあ……。逃げるってどこに?」
親友君は立ち上がって、僕の近くに来る。
「遠くに決まっている。もしくは空だ。僕を持ち上げてくれ」
「分かった」親友君の小さな体躯を抱っこした。
「うむ」
ご満悦そうに頷き、親友君は次の指示を与えてくる。
「では飛ぼう。五十嵐君に飛べるなら君にも飛べるはずだ。さあ、五十嵐君も早く」
「え、いや、うん……」信じられない風に倒れかけるベヒモスの胴体を見上げていたアキラが親友君の声で我を取り戻す。「飛ぶ、飛ぶね。うん、逃げよう」
アキラが大跳躍して西の方角に飛んでいった。そっちは一番近いベヒモスの脚がある方向で、胴体の下から出られる最短距離だ。
アキラを追って逃げる直前に、僕の頭の中に不安がよぎった。ベヒモスがこんな簡単に自滅してくれるのだろうか? だって終末の獣だろう?
「大丈夫」僕に抱えられた親友君の声が聞こえる。「問題はない。僕を信じろ」
「了解」
力強い彼の言葉に背中を押され、僕は思いっきり跳んでみた。僕たちは崩落するベヒモスの胴体の下から飛び出していった。そうだよなー、親友君が何の根拠もないのに言うはずないもんなー。僕の親友君に寄せる信頼は、絶対だ。
瞬き一つの間に、僕と親友君は避難していた。その行程は高速移動というより瞬間移動に近かった。気がついたら、ベヒモスから遠く離れた鉄塔の上空に浮遊していた。
周りの町並みを見渡す。どうも僕たちは隣町まで逃げてきたようだ。十キロメートル以上の距離を一瞬で移動してしまったわけだが、やっちゃっていいんだろうか、これって。無自覚のまま凶悪犯罪に手を染めてしまっているような罪悪感があるのだけど。
東の空に、桃色の肥満体が見える。離れて見てみると、改めてベヒモスのサイズが桁外れなことを認識した。シルエットはカバに近しいが、耳が広がっており、側頭部に曲がった角が生えていた。口のでかい象みたいだ。
こちらに飛んでくるアキラの姿を発見した。ダッサー。先に出発したのに遅れてきてやんのー。ウサギみたいに市街地の上をぴょんぴょん跳ねてきたアキラが、こちらの姿に気づいて驚愕し、鉄骨を大ジャンプで昇ってきた。
アキラが鉄塔の頂上に立って見上げてきたので、僕はその隣に下りていった。
……あっ! 僕、空を飛んでいる! 今さらそれを自覚した。
僕が鉄骨の上に着地するなり、アキラが口を尖らせた。
「いやいや、なに当然のように空間転移してるんだよ。どんだけの生まれ持った才能だよナチュラルボーンかよ。真っ先に逃げた私が阿呆みたいじゃないか」
「下ろしてくれ。一旦はここでベヒモスとやらの自滅を見守ろうか」
親友君がそう言ったので、僕は彼を下ろした。
「……あ。ベヒモスが耐えてる」僕は遠くの巨体を指さした。
膝を屈するように倒れていったベヒモスが、踏みとどまっていた。踏みとどまるといっても、すでに膨らんだ腹部は地上に到達して、街をすり潰している。腹が接地したことで、体重が分散されて四脚への負担が減ったのだろう。
「見える? 親友君」
「見えない。状況の説明を頼む」目を細めて親友君は答えた。
僕は、ベヒモスの腹部が地面に到達している様子を話した。
「どうするの、これから」
僕の問いに、親友君はうっすらと笑う。
「はははっ。まだ僕たちに何かできると考えているのか? 君らしくもなく勇猛果敢な指針だが、今はその姿勢は捨てるが良い。何かをしようと思ってはいけない。僕たちはただ見守るだけだ。敵が自然現象に踏み潰されていく様を」
「自然現象ねえ。万有引力の次は、何があの怪獣を襲うんだい?」
「よく聞くと良い。日本という島国の特徴として、複数の大陸プレートに乗っていることがある。地震が多発しやすい地盤である。火山が多く存在するのも。プレートとプレートとの溝が点在して熔岩貯まりが生じやすいからだ」
「そんなこと地理で習ったな。こんなときに復習?」
「復習はいずれのときも大事だ」
見るのだ、と親友君はベヒモスが居座り、壊れ果てた街を指差す。
「――さて、確認したように日本は地盤が脆い。建造物を建てる際には必ず地盤を強化する基礎工事を行う。この基礎工事を行なわずに超重量のものを建築すれば、地盤は緩み、建物は傾いて、いずれは倒壊する。在り得ない重さのものをいきなり落としでもしたら、地盤は綺麗に割れてしまうに違いない」
「……え、割れるの? 地面」
「割れる割れる」親友君は軽いノリで断言した。
軽いノリだったけど、親友君がこんな局面で冗談を言うわけがないし、すると根拠があってのことを言っているんだろうなぁ。さすがは親友君、色んなこと知っているなぁ、と僕は感心した。
そうして。
全長三キロメートル、質量十二億トンのベヒモスの四脚と腹部が接している地面が、僕たちの生まれ育った街が、パッカリと割れた。
ベヒモスを中心に巨大な亀裂が四方八方に走り、薄氷のようにへし折れた。街が広い範囲で崩壊して、上に乗っているベヒモスごと地下に落ちていく。僕の家や親友君の団地も、きっと崩落に飲み込まれちゃっている。遠くで見ているから現実味がないけれど、中心地は途轍もない地獄絵なんだろうな。恐ろしい限りだ。
「お、親不知君……、きみ、それ、まさか……」
アキラが口を戦慄かせて親友君を見ていた。
「ああ、そうそう」と親友君は言った。「この辺の地域は活火山も近いため、地下にはマグマ貯まりが必ずといっていいほど存在する。地面が崩落して地下にマグマの海があったとしても仕方のないことだ」
「マグマの海って、それすごいな」
「すごいだろう?」
親友君が自慢げにこちらを向いた。
僕は、遠くの街とベヒモスを眺める。跡形もなく壊滅した僕らの街は今や巨大な窪みと化して、ベヒモスの巨体を丸まる飲み込んでいる。胴体の下半分が地面の下に埋もれており、ベヒモスは身動きできないでいる。頭を天に突き出したベヒモスが、突然、巨大な顎を開き、大気を震わせた。
「――ッ!」
僕とアキラは反射的に耳を塞いだ。
ベヒモスの口から放たれた大音量は空気を圧縮して風景を歪ませ、数十本の雷を発生させて、大地を激しく揺さぶった。それは絶叫だった。
「おお、凄まじい……」親友君が雷光に目を細め、うっとりとコメントした。
ベヒモスが暴れたことで、巨体と窪みの狭間から粘性の赤い液体がこぼれ出てきた。あれこそは融解した大地のスープ、マグマだ。灼熱のマグマは流れて広がっていき、周辺の田畑や森を焼き焦がす。
直接は見えないが、マグマ貯まりの中に胴体半分以上が浸かっているのだろうベヒモスの苦しみようは凄まじかった。巨体が暴れて窪みの縁にぶつかるたびに、マグマが噴き上がる。苦しくても融けていても、四肢をまるまる突っ込んでいるベヒモスは、マグマの海から這い出ることができない。
「ベヒモスの現状はどうか? 順調に熔かされているか?」親友君がきいてきた。
「うん。一気にというわけには行かないみたいだけど。苦しんで頭を振り回している」
「頭を振り回している? それは危険だ。生物の脳みそとは存外弱いもので、些細な衝撃でも傷つくことがある。骨は無事でも中身が致命傷という例はざらにある。巨大生物が巨大な頭部を振り回せば、その莫大な反復距離に伴った衝撃が脳みそを襲うことだろう。すでに頭蓋骨の中でグチャグチャに潰れていてもおかしくない」
親友君の言葉に納得した途端、苦悶していたベヒモスが全身の力を失い、ぐったりと頭を下ろしていく。馬鹿でかい鼻面が地層をがりがりと削っていく様子が見えた。死ぬ直前まではた迷惑な怪物だ。
大地に寝そべる格好でベヒモスは動かなくなった。微妙に痙攣しているのが離れていても分かった。鼻腔と両目から大量の血液が流れ出て、川のようになっていた。
「ベヒモスが倒れて、鼻と目から血を流している。死んだのかも」
「『かも』ではなく、死んだのだ。余計な可能性は考えなくて良い。この世界で生存するには全長三キロメートルの肉体は脆弱であったようだ」
「そういうものか」
僕たちは何もしていないけど、死んでしまったと思うと少しは哀れに思う。ベヒモスを見ると、その巨体が薄れていくのが見えた。聖書の怪物は死んだのだ。
「っつーか、被害がすげえな……」
ベヒモスの巨体が消えていくことで、その下に潰されていた町の惨状が見えるようになる。町があった地域が広範囲で割れ、窪みからは灼熱が覗いている。熔岩は満遍なく広がって、辺り一面が焦土と化している。最後、ベヒモスの頭部が突っ込んだ地域は、建物がすべて崩壊しているのはもちろん、河川や丘陵も均されて平原に変わってしまっている。地下シェルターなどがあったとしても、潰されたことだろう。生存者がいるとは思えない。人だけでなく生物の九割が死滅しただろう。
「君って奴は……」
アキラが呆れたように親友君を睨んでいた。
「何だろうか? 僕は僕の思いつくままに行動してみただけだ」親友君は悪びれずににやりと笑う。「自己弁護をするつもりはないが、責任追及は無意味だと思うが?」
「……ま、そうだよね」アキラは諦めたように吐息する。
僕は壊滅した町を見ていた。町の中心から再生が始まった。ベヒモスの巨体が押し潰し、崩落した地面が持ち上がって窪みが消える。飛び散っていた熔岩は地面に吸い込まれて消えていった。平面に戻った土地の上に、ビデオの早送りを見るように建築物が生え揃っていった。修復は同心円状に伝播していく。まばたきするたびに景色が元通りに戻っていく。まるで最初からすべてが幻想であったかのように。
ベヒモスの鼻面が削った大地が直されて、修復は完了した。
何万人もの人間が一瞬で死に、一度に復活したのだ。その事実を理解し、僕の心に不思議な感慨が湧いてくるが、言葉にするのは難しそうだった。
「馬鹿らしくなってこない? 上位の存在に振り回されて、大事であるはずのものが色々と踏み躙られていくのって」
アキラが元通りになった町を見渡しながら、そう言った。
「一方的なんだよ。私たちは遣い魔を追い払うことしかできない。どう足掻いても、魔女本人に手を届かせることはできないんだ」
「ベヒモスを倒されたんだから、諦めるんじゃないのか?」
僕の言葉に、アキラは首を振る。
「このくらい、魔女にとって痛手でもないよ。……まあ、悔しがらせることはできたかもね。次のが来るまでの時間稼ぎにはなったよ」
ほら見て、とアキラは天を指差すが、僕には何も見えなかった。
「どれのこと?」
「あれ? 『通路』までは見えないの? さっきまで大空にぽっかりと暗闇の丸いのがあったんだ。それが収縮している。無理して『通路』を拡張したから、その反動で縮んできている。このままだと閉じる勢いだね。当分は魔女のちょっかいも収まるだろう。束の間だろうけど」
僕は、アキラの指の先をじっくりと見てみるが、やはりどれを差しているのか分からなかった。親友君に目配せしてみるが、彼も首を横に振った。
親友君が、西の空に傾いている太陽をちらりと見て、僕に言ってきた。
「五時二十分。悪いが、そろそろ門限の時間だ。僕は帰宅する。それですまないのだが、一つ頼まれ事を引き受けてくれないだろうか?」
「何を?」
「僕を団地まで送り届けてくれ。僕の足ではここから下りれないし、歩いて帰るには無謀な距離だ。厚かましい願いであるが、どうか頼まれてくれないだろうか」
「もちろんいいよ、それくらい。隣町まで来ちゃったのは僕のせいだし」
僕は親友君を背中に乗せて、鉄塔の上からジャンプした。今度は瞬間移動できなかった。大きく放物線を描いて落下していき、近くのマンションの屋上に足を着いて、再び跳躍。大跳躍と着地を繰り返して移動する。アキラが横に追いついてきた。
歩幅を合わせたアキラが言った。
「さっきから人に見られているよ、まったく。隠蔽くらいしろっての」アキラが僕の額に一瞬触れた。僕の全身をひやっとした風が包み込んだ。
「ん。何したんだ?」
「普通の人には見えない状態にした。空を飛んでいる姿を見られたら大騒ぎだよ?」アキラは微笑みで言う。「天変地異クラスの術は使えても、基礎的な術も使えないんだからアンバランスにも程があるね。性格的な問題かな、そこまで万能じゃないか」
アキラは、僕の背中にいる親友君へ話しかける。
「よく信じてくれると思ったね。あんな出任せを。信じる方も信じる方だけど、親不知君があんな大胆な手を使ってくるとは思わなかったよ」
「彼は、根が素直だからね」
「……騙しているようで、あまり気分の良いやり方じゃないよ、そういうの」
「それは五十嵐君の感情だ。この手法に意見できるものではない」
「……二人とも何の話してるんだ?」僕は聞いた。
「「君には関係ない話」」
親友君とアキラは口を合わせて答えた。
二人は僕を挟んで睨み合い、続きは話さなかった。
そのあとは無言で帰っていった。僕は市営団地の駐車場に着地して、そこで親友君を下ろして別れた。親友君が団地に入っていくのを見守った。
「さて。僕も帰ろうかな」僕は自宅の方に足を向けた。
駐車場では、アキラがぴょんぴょんと軽く跳ねては首を傾げていた。何してんだろう、あいつ。ジャンプする力加減の練習でもしているのか?
「じゃあ、僕も先に帰るよ」僕は声を掛ける。
「あ、うん」アキラはこっちを向く。
僕は、すっかり手馴れた風に跳躍しようとして――跳べなかった。
小さく跳んで、すぐ落ちた。
跳んだ距離は一メートル半。立ち幅跳びの記録なら、短いくらいだ。
「あれ?」と首を傾げてもう一回高く跳んでみる。跳べない。跳べるけど、在り得ない高さを飛べない。変な言い回しだ。在り得ないのなら、それでいいはずなのに。
僕の運動能力は普通に戻っていた。
「ああ……、君もかぁ。力が制限されちゃっているね」アキラが言った。
「アキラも跳べなくなったのか。これ、どういうことだ?」
「普通に戻ったってことかな。私の場合は『なった』ことになる。『通路』のサイズが収縮するのに合わせて、三次元界の法則の力が強まったんだと思う。今は三次元界の『普通』を押し付けられている状態なんだ。突飛な偶然や奇跡も起こりにくくなっているだろうね。君のイレギュラー体質もセーブされていると思うよ」
「ふうん……。つまり、元通りってことだな」
「そうだね。けど、異界の住人の私にまで強制させるとはね……。うーん……」
頭を悩ませるアキラだったが、すぐににぱりと笑った。
「まあいいやっ。レッツ、ゴーホーム! じゃあね、また明日ー!」
アキラは足を返すと、全速力で走っていってしまった。普通に走れることが楽しそうだった。アキラの言い分を聞く感じ、弱体化しているだろうに元気な奴だ。
僕も跳躍移動ができない以上、帰宅するには自分の足に頼るしかない。自転車はカラオケのお店に置きっ放しだ。そこまで取りに行くのと、自宅にまっすぐ帰るのとは、まっすぐ帰った方が近いのだけど、明日以降のことも考えると自転車は持ち帰っておきたい。
「学校あるしなぁ……」
少し考えて、僕は疲労度を優先して帰ることにした。今日はあっちこっち移動し過ぎて疲れた。今日もう頑張りたくない。自転車は明日の放課後に取りに行こう。おっと、そうだった。部活もサボり気味だから、明日こそは部活に行こう。
三十分掛けて、僕は家に帰った。
「ただいまー」
玄関を入ると、石畳に寝転がっていたペットのコリー犬がすり寄ってきた。両親は帰ってきていた。黒い喪服に身を包んでいて、線香の香りをさせていた。
母は喪服を着替えている途中で、僕を一瞥した。
「おかえり。今、帰りか?」
父が時計を見て聞いてきた。時刻は六時半近くだった。部活をしてきたにしても、遅いかもしれない。思えば僕はスポーツウェアだし、通学カバンを持ってなかった。学校の帰りではないことはバレバレだ。……どうやって言い訳しようかな。
しかし、父は気にならなかったようで言ってきた。
「今日は出前にしようと思っている。お前は何にする?」
「父さんたちと一緒でいいよ」
「そうか? 母さんはうどんで、俺は天丼だけど」
「じゃあ、蕎麦」
「全然一緒じゃないな」父は頷いて、携帯電話をプッシュした。
出前が来るまでの間、僕はコリー犬とじゃれ付いて時間を潰した。
二十二分後に家のインターフォンが鳴って、出前のお兄さんが、きつねうどんと天丼とざる蕎麦を置いていった。父が料金を支払っている間に、僕がその三つを食卓に運んだ。
「「いただきます」」
僕と父の声が重なり、母は無言で手を合わせる。
夕飯を食べ始めてから、母が小さな声で「包丁知らない? 一本ない」と聞いてきた。刺身包丁のことだと分かったが、ぶっちゃけ僕も、どこに忘れてきたのか覚えがないので、「知らない」と白を切った。可能性としてはカラオケボックスが高いから、明日自転車を取りに行くついでに、店員さんに忘れ物がなかったか聞いてみよう。
母は残念がらず、静かに頷いただけだった。
とまあ、こうして。
奇想天外なる僕の長い長い水曜日は、無事に終わったのだった。
ちゃんちゃん、と言いたい気分だね。清々しい。




