第9話 帰巣本能がない猫
大吉さんが一歳くらいになった頃から、お父ちゃんには一つの楽しみがあった。
夜になると、お母ちゃんと猫たちを連れて、近所をゆっくり散歩することである。
初代太郎君。
そして、大吉さん。
二匹は、お父ちゃんとお母ちゃんの前をのんびり歩き、夜風に吹かれながら散歩を楽しんでいた。
しばらく歩くと、お父ちゃんは優しく声をかける。
「さあ、もう帰るよ。」
すると初代太郎君は、ちゃんと家の方向へ歩き始める。
猫には「帰巣本能」があると言われる。
自分の家へ帰る道を覚えているのである。
ところが――。
「大吉、そっちは反対だよ。」
当の大吉さんだけは、毎回まったく違う方向へ歩いて行ってしまう。
右へ行ったり、左へ行ったり。
時には、来た道とはまるで反対の方向へ向かったりする。
「おいおい、大吉。」
お父ちゃんは思わず苦笑い。
結局、最後は大吉さんを抱っこして家まで帰るのが、いつもの散歩の締めくくりだったそうだ。
家族は笑いながら言っていた。
「大吉は、帰巣本能をどこかに忘れてきたんだね。」
もちろん、大吉さん本人はそんなことなど気にもしていない。
お父ちゃんの腕の中で満足そうな顔をしながら、家まで運んでもらっていたのである。
しかし、この「帰巣本能がない」という性格が、後に吾輩を巻き込む思いもよらない大事件につながることになる。
それは、まだずっと先のお話である。
それから数年後。
お父ちゃん一家は、新しく建てた庭付きの家へ引っ越した。
大吉さんと初代太郎さんも、一緒に新しい家で暮らし始めた。
リビングの前には、六畳ほどの広さのウッドデッキがあった。
手すりだけの開放的なデッキだったが、不思議なことに二匹は一度も逃げ出そうとはしなかった。
晴れた日には並んで日向ぼっこをし、風の気持ちいい日には仲良く昼寝をする。
まるで本当の兄弟のように、いつも一緒だった。
ところが、その穏やかな毎日は突然終わりを迎える。
初代太郎さんが腎臓病を患ったのである。
一年ほど闘病した末に、初代太郎さんは静かに旅立ってしまった。
長年寄り添ってきた親友を失い、大吉さんは毎日どこか寂しそうだった。
以前のように遊ぶことも少なくなり、ウッドデッキで一匹、ぼんやり外を眺める時間が増えていったという。
そんな大吉さんの前に、新しい風を運んできたのが、福ちゃんと銀君だった。
元気いっぱいの二匹は、大吉さんの後をついて歩き、ときには遊びに誘い、ときには一緒に昼寝をした。
そのおかげで、大吉さんにも少しずつ穏やかな時間が戻っていった。
こうして十五年。
大吉さんは、この家で数え切れないほどの出会いと別れを見届けてきた。
華ちゃんとの別れ。
小鉄君との別れ。
初代太郎君との別れ。
そして、福ちゃん、銀君との新しい暮らし。
だからこそ、突然現れた吾輩を見ても驚かなかったのかもしれない。
大吉さんはゆっくりと吾輩の前まで歩いてくると、鼻先をそっと近づけた。
「これからよろしくな。」
そんな声が聞こえたような気がした。
吾輩も静かに鼻先を寄せる。
それが、この家で初めて交わした猫同士の挨拶だった。
こうして吾輩は、この家で最初の猫友達と出会ったのである。
その一方で――。
少し離れた場所から、二匹の若い猫が吾輩をじっと見つめていた。
福ちゃんと銀君である。
二匹は顔を見合わせ、小さく何かをささやいている。
どうやら、大吉さんとは少し違う方法で吾輩を歓迎しようと相談しているらしい。
さて。
この二匹、いったいどんな猫なのだろうか。
その続きは、また次のお話である。
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