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第4話 チュールに誘われて

あの日から吾輩は、夜九時になると自然とその家へ向かうようになった。


空を見なくても、時計を知らなくても、不思議と体が時間を覚えている。


気が付けば、今日もあの家の勝手口の前に立っていた。


もっとも、食いしん坊の吾輩には、一日一食はかなりつらかった。


姫ちゃんはいつも少し早い時間にやって来て、ご飯を食べ終わると、


「じゃあね。また。」


と言って、古い建物へ帰っていく。


吾輩だけは、そのあともしばらく庭の隅に座り、家の明かりをぼんやり眺めていた。


家の中から聞こえてくる家族の笑い声。


楽しそうなテレビの音。


そして、夕食の美味しそうな匂い。


そのどれもが、吾輩には初めて感じる温かさだった。


「家って、こんなに安心できる場所なのか……。」


そう思いながら、毎晩その家を後にしていた。


一方、その家でも、ある計画が少しずつ芽生え始めていた。


「この子、本当に毎日夜九時ぴったりに来るね。」


ご主人がそう言うと、奥さんもうなずいた。


「しかも、この猫……どう見ても普通の野良猫じゃないわ。」


二人が気になっていたのは、吾輩の顔立ちだった。


ご主人夫婦は、最近までヒマラヤンを飼っていた。


その面影が、吾輩と重なったのである。


毛並みはヒマラヤン特有のモフモフした長毛ではなかったが、その顔立ちは間違いなくヒマラヤンだった。


「誰かに飼われていた猫じゃないかな。」


「それとも、捨てられてしまったのかもしれないね。」


そんな会話をするようになっていた。


もし本当に飼い猫だったなら、きっと飼い主が探しているかもしれない。


そう考えたご主人は、近所で話を聞いたり、迷い猫の情報を調べたりもした。


しかし、それらしい情報はどこにもなかった。


「それなら……。」


ある日、奥さんがぽつりと言った。


「この子を家族に迎えてあげられないかな。」


その一言が、家族みんなの心を動かした。


だが、一つだけ問題があった。


吾輩はご飯は食べるようになったものの、人が近づくと必ず逃げてしまう。


抱っこなど、とてもできない。


家へ入ってもらうことなど、夢のまた夢だった。


「まずは仲良くならないとね。」


そう言って、ご主人が取り出したのは、猫たちが大好きなおやつだった。


細長い袋に入った、とろりとした食べ物。


その名も「チュール」。


ご主人は袋の先を少し切り、指先へとろりとチュールをのせた。


とたんに、甘く濃厚な香りが夜風に乗って流れてくる。


「なんだ……この香りは。」


思わず一歩前へ出る。


だが、すぐに足を止めた。


「人間を信用して、本当に大丈夫なのだろうか……。」


心の中で葛藤していると、ご主人は何も言わず、ただ静かにしゃがみ、優しい笑顔で吾輩を見つめていた。


そして、指先のチュールをゆっくり差し出した。


吾輩は慎重に近づく。


あと一歩。


あと半歩。


鼻先がチュールまであと数センチ。


その時だった。


ふと視線を感じて顔を上げると、勝手口の網戸の向こうに三つの影が並んでいた。


一匹は白いひげが立派な、年老いたキジ猫。


その落ち着いた優しい眼差しは、まるで、


「お前、腹が減ってるのか?」


と問いかけているようだった。


その両脇には、色の薄い三毛猫のメスと、キジトラ白のオス猫が、興味津々といった様子で吾輩を見つめている。


「この家には、ほかにも猫がいるのか……。」


吾輩は思わず立ち止まった。


三匹もまた、突然現れた見知らぬヒマラヤンに驚いているようだった。


しばらくの間、網戸越しにお互いを見つめ合う。


誰も鳴かない。


誰も威嚇しない。


ただ静かな時間だけが流れていた。


ご主人はその様子を見て、優しく笑った。


「みんな、新しいお客さんが気になるみたいだね。」


吾輩には、その言葉の意味は分からなかった。


だが、あの三匹との出会いが、これから始まる賑やかな毎日の始まりだったのである。


再びチュールへ目を向ける。


鼻先がチュールに触れた。


ぺろり。


その瞬間、吾輩の目が丸くなった。


「うまい……!」


こんな美味しいものが、この世にあるとは思わなかった。


気が付けば警戒心などすっかり忘れ、夢中でチュールを舐めていた。


挿絵(By みてみん)


ご主人は嬉しそうに笑いながら言った。


「今日はここまで。また明日な。」


無理に触ろうとはしない。


追いかけても来ない。


ただ毎日、少しずつ距離を縮めてくれる。


その優しさが、凍りついていた吾輩の心をゆっくりと溶かしていった。


そして吾輩は、まだ知らなかった。


あの夜、網戸の向こうで静かにこちらを見つめていた三匹が、


やがて一緒に笑い、


時にはケンカもし、


同じ場所で眠る、


本当の家族になることを。


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