第15話 「大吉さんとの別れ」
吾輩がこの家に来て、三度目の冬を迎えた頃だった。
大吉さんが、体調を崩した。
それまでの大吉さんは、十七歳という年齢になっても食欲があり、吾輩たちと一緒にのんびり暮らしていた。
ところが、少しずつ元気がなくなり、病院へ通う日が増えていった。
ある日、吾輩がリビングへ行くと、見たことのないものがあった。
透明な液体の入った袋。そこから細い管が伸び、大吉さんの体につながっている。
「大吉さん、それ何してるの?」
もちろん、大吉さんは何も答えない。
ただ、いつものように静かな顔をして横になっていた。
あとで聞いた話だが、大吉さんは「糖尿病」という病気にかかり、自宅でも点滴を受けていたそうだ。
吾輩には「糖尿病」がどんな病気なのか分からない。
ただ一つ分かったのは、大吉さんが一生懸命頑張っているということだった。
大吉さんは、リビングが大好きだった。
冬になるとホットカーペットの上で体を温め、気持ち良さそうに眠っていた。
体調を崩してからは、お父ちゃんも大吉さんが寒くないように、ずいぶん気を使っていた。
「大吉、寒くないか?」
お父ちゃんはそう言いながら、ホットカーペットだけではなく、夜になってもエアコンの暖房を切らなくなった。
大吉さんが寒い思いをしないように、一晩中つけっぱなしにしていたのである。
そのおかげで、大吉さんは暖かいリビングで、ゆっくり眠ることができた。
ところが――。
その月の電気代の請求を見て、お父ちゃんとお母ちゃんは驚いた。
「五万円超えてる……」
なんと、電気代が五万円を超えていたそうだ。
吾輩には五万円がどれくらいのお金なのか、よく分からない。
チュールなら、いったい何本買えるのだろう。
とにかく、お父ちゃんとお母ちゃんにとっては大変な金額だったらしい。
それでも、お父ちゃんは大吉さんのために暖房を止めなかった。
お金より、大吉さんが寒くないことの方が大切だったのだろう。
暖かいリビングで、大吉さんはいつものように静かに過ごしていた。
吾輩たちが近くを走り回っていても怒らない。
福ちゃんがそばへ来ても、銀君が横を通っても、いつもの大吉さんだった。
ところが、ある日のこと。
大吉さんは、お父ちゃんの腕の中にいた。
お父ちゃんは何も言わず、大吉さんの体を優しく抱いていた。
そして大吉さんは――。
その腕の中で、眠るように旅立った。
十七歳の一月だった。
吾輩がこの家に来た時、最初に吾輩を受け入れてくれた先住猫。
それが、大吉さんだった。
初めて会った日、大吉さんは吾輩の前までゆっくり歩いてきて、鼻先をそっと近づけてくれた。
「これからよろしくな」
吾輩には、そんな声が聞こえたような気がした。
知らない家。
知らない人間。
知らない猫たち。
まだ何もかもが不安だった吾輩に、大吉さんは何も聞かず、何も怒らず、
「ここにいていいんだぞ」
そう教えてくれたような気がする。
そんな大吉さんが、いなくなった。
リビングのホットカーペットには、大吉さんの姿がない。
ソファを見てもいない。
ウッドデッキを見てもいない。
家の中が、急に広くなったように感じた。
福ちゃんも静かだった。
銀君も、いつものように走り回らない。
吾輩も、何をしていいのか分からなかった。
お父ちゃんも、お母ちゃんも同じだった。
家族みんなの会話が少なくなった。
誰も口には出さなかったが、みんな大吉さんを探していたのだと思う。
それから、何日か経ったある日のこと。
吾輩はウッドデッキで日向ぼっこをしていた。
すると、福ちゃんがやって来た。
「太郎」
「何だ?」
「そこ、私の場所なんだけど」
「こんなに広いんだから、いいだろ」
「そこが一番お日様が当たるのよ」
「早い者勝ちだ」
「どいて」
「嫌だ」
そこへ銀君までやって来た。
「二匹とも何してるの?」
「太郎が私の場所を取ったの」
「吾輩が先に寝ていただけだ」
銀君は吾輩と福ちゃんを見て、少し考えた。
そして――。
吾輩と福ちゃんの間に、無理やり体を押し込んできた。
「おい、銀君!」
「狭い!」
「三匹で寝ればいいじゃん」
「だから狭いって言ってるのよ!」
「吾輩を押すな!」
久しぶりに、ウッドデッキが騒がしくなった。
リビングから、その様子を見ていたお父ちゃんが笑った。
「お前たちは相変わらずだなぁ」
その隣で、お母ちゃんも久しぶりに笑っていた。
吾輩は、その声を聞きながら、ふとリビングの方を見た。
大吉さんがいつも寝ていた場所には、もう誰もいない。
でも――。
なぜだろう。
その時、少しだけ大吉さんが近くにいるような気がした。
「お前たち、仲良くやれよ」
そんな声が聞こえたような気がした。
「太郎、何ぼーっとしてるの?」
福ちゃんの声で、吾輩は我に返った。
「何でもない」
「だったら、もう少しそっちへ行って」
「福ちゃんが向こうへ行けばいいだろ」
「嫌よ」
「じゃあ銀君がどけ」
「僕も嫌だよ」
「お前たちなぁ……」
結局、誰も動かなかった。
大吉さんはいなくなってしまった。
寂しくないと言えば、嘘になる。
今でもリビングのホットカーペットを見ると、大吉さんがそこで気持ち良さそうに眠っているような気がする。
でも、吾輩たちは生きている。
ご飯を食べて、走り回って、時々けんかをして。
そして、最後には同じ場所で眠る。
きっと大吉さんも、それでいいと言ってくれるだろう。
大吉さん。
吾輩をこの家の仲間として、最初に迎えてくれてありがとう。
吾輩たちは今日も元気だ。
福ちゃんも。
銀君も。
そして――。
吾輩も。
だから、心配しなくていいからね。
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