進という人
進は役場から戻ると、玄関の隅に革靴を揃え、上着を柱の釘に掛けた。春江が飯をよそいはじめる頃には、もう畦に出ていることがあった。夕闇の田から鍬の音が聞こえ、家に灯りがともる頃、ようやく帰ってくる。手の甲は、役場勤めの男とは思えないほど日に焼けていた。
「あんた、もうやめんさい」
春江が縁側から声をかけると、進は鍬を立てて顔を上げた。
「ここだけじゃ」
その「ここだけ」が三度続くと、春江は腹が立った。けれど泥のついた足で戻ってきた夫に白湯を差し出すと、進は両手で湯呑みを受けて、子どものようにうまそうに飲んだ。嫁いで最初の冬、進は春江の手のあかぎれを見た。
「痛むんか」
「平気です」
春江は反射的に答えた。進はそれ以上何も聞かなかった。翌朝、井戸端に、湯を張った桶が置いてあった。
「そんな贅沢を」
イネが言うと、進は照れくさそうに鼻の下をこすった。
「わしも、手が冷たいけえ」
春江は湯の中で、かじかんだ指を広げた。守られるというのは、こういう小さなことなのかもしれない、と思った。
進は、本当は学校の先生になりたかったのだと、イネが一度だけ漏らしたことがある。岡山の大学の教育学部の願書まで取り寄せていたのを、源蔵が「長男じゃけん」と言って、それきりになった。進は何も言い返さず、翌年、役場の試験を受けたという。
「あの子は、昔から、自分のことは後回しにする子じゃ」
イネはそう言って、春江の顔を見ずに、繕い物の糸を噛み切った。春江は、夜、進が子どもに字を教えるように、自分の書いた手紙の誤字をそっと直してくれたことを思い出していた。ある夕方、イネが、春江の洗った茶碗をもう一度水にくぐらせた。春江はそれを見て、腹の底がきゅっと縮んだ。
「洗い残しが、ありましたか」
「別に」
二人のあいだで、水の音だけが続いた。その晩、膳を囲んでいるとき、進が箸を置いた。
「お母さん。春江に言うことがあるなら、わしがおるときに言うてくれ」
イネの箸が止まった。
「わしは、悪者か」
「そうじゃない。春江はまだ、この家のやり方を知らん。知らんことを黙って直されても、分かるようにはならん」
「お前は、嫁の肩ばかり持つ」
イネは食べ終わっていない茶碗を下げて、台所へ立った。源蔵は何も言わず、茶をすすった。夜更け、春江がひとりで台所を拭いていると、イネが戻ってきた。春江は布巾を持ったまま身を固くした。イネは棚の奥から、縁の欠けた茶碗を一つ取り出した。
「進が小さい頃はな、あの子も、ようけ皿を割った」
欠けた縁を、イネの指がなぞった。
「これ、まだ使うとる」
言うだけ言うと、イネは茶碗を棚に戻し、寝間へ引き上げていった。春江は返事を探したが、見つからなかった。棚の茶碗を取り出して、欠けたところに自分の指を当ててみた。明日の朝は、いつもより少し早く起きようと思った。許されたのかどうかは、定かでなかった。寝床に入ってから、春江は暗がりで言った。
「親に逆らわんでも、ええのに」
「逆ろうとらん。ほんまのことを言うただけじゃ」
春江は布団の中で、くすりと笑みをこぼした。自分の味方が、この家に一人いる。それだけで、嫁ぎ先の家は少し広くなった。
進はときどき、町から甘いものを買って帰った。包み紙を開くと、小さな饅頭が二つ入っている。
「お義父さんらの分は」
「今日は、春江の分じゃ」
真顔でそう言うので、春江は笑いながら一つを半分に割り、進の口に押し込んだ。進は目を白黒させて、それでも神妙に食べた。峠の地蔵さんの前で、ひしゃげた饅頭を半分に割ったあの日から、それは春江の癖になっていた。




