知らない家の台所
嫁ぎ先の台所は、ひどく広かった。実家のものよりずっと古いかまど。黒光りした太い梁。釜も鍋も水がめも、この家の人にとっては体が覚えている場所にあり、春江にとっては、どれもが初めて見るものだった。その家は、村では「門の家」と呼ばれていた。
もとは一つの一族が山すそに田を開き、枝分かれしてできた村で、表札を見ればどの家も同じ苗字が並ぶ。だから家は屋号で呼ばれた。上の家、橋のたもと、柿の木の家。春江の嫁いだ家は、古い長屋門があるので、門の家だった。舅の源蔵は寡黙な人で、姑のイネは、口数は少ないが目の多い人だった。
「火は、焚きつけを先にくべるんよ」
イネはそう言って手本を見せた。口調に棘はなかったが、声に温度もなかった。
「はい」
翌朝、春江はひとりでかまどの前に座った。教わったとおりにやった。つもりだった。釜の蓋を取ると、飯の底が真っ黒に焦げていた。匂いが台所に広がった。春江は釜の前で固まった。気がつくと、イネが戸口に立っていた。何も言わず、釜と春江の顔とを交互に見ていた。朝の膳に、焦げの混じった飯が並んだ。源蔵は無言で茶碗を受け取り、眉ひとつ動かさずに箸をつけた。黒い粒も、一つ残らず食べた。夫の進は目を伏せたまま、同じように食べた。誰ひとり、口を開かなかった。言わないことのほうが、叱られるより重く感じられる朝もある。春江は膳の端で、箸を持ったまま自分の茶碗を見ていた。ふと、自分の小皿に、沢庵が一切れ足されているのに気づいた。誰が足したのかは、ついに知れなかった。*嫁いで最初の冬、春江は井戸の水の冷たさに驚いた。生まれた家の井戸も冷たかったが、ここには、冷たいと口に出せる相手がいなかった。イネは、春江の切った大根の厚さまで見ていた。
「この家では、もう少し薄う切るんじゃ」
ただの教え方だったのかもしれない。けれど朝から晩まで続けば、春江には、自分の手の動きが全部間違っているように思えてくる。
「嫁に来たら、その家の土になれ」
と、春江は嫁入りの前に、山の村の年寄りから言い聞かされていた。この土地では、嫁は家へ来た人ではなく、家の一部になった人として扱われた。法事でどの茶碗を誰から先に出すか、隣組の手伝いに何時に行くか、祭りの寄付をいくら包むか。教わらなくても知っているはずのことが、あまりに多かった。知らないと言えば気が利かんと言われ、聞けば、そんなことも知らんのかと言われた。春江は夕飯のあと、台所の柱に背を預けて、足袋の親指に開いた穴を見つめていることがあった。昼過ぎ、洗濯物を干して畑の手伝いに出ているあいだに、空が曇った。気づいて戻ったときには、にわか雨が洗濯物をすっかり濡らしていた。春江はずぶ濡れの敷布を前に、立ち尽くした。
「あらまあ」
垣根の向こうから声がした。同じ年頃の女が、野良着姿でこちらをのぞいていた。
「あんた、門の家の新しい嫁さんじゃろ。うちはふみ。隣じゃ。この辺の雨はな、西の空がちょっと黒うなったら、もう降るけん」
「……はい」
「そがいな顔、せんでええ。うちも嫁に来たとき、洗濯物を3回濡らしたわ」
ふみは笑って、手を振って行った。春江は濡れた敷布を抱えたまま、口の端をかすかに持ち上げた。この土地に来て初めて、誰かに笑いかけられた気がした。その晩、風呂の火の番をしながら、春江は小さな声で歌を口ずさんだ。実家で寿美がよく歌っていた流行り歌の、最初の一節だった。調子が外れていて、誰にも聞かれなかった。
風呂は、源蔵、進、イネの順に入り、嫁は最後だった。春江が湯に浸かる頃には、湯はぬるく、手拭いの毛羽が浮いていた。五右衛門風呂の底板を踏み外さないよう、そっと足を沈める。実家の大晦日の風呂を、春江は思い出した。最後に入っていた母は、こんな湯に浸かっていたのだ。春江はぬるい湯の中で膝を抱えて、声を殺して泣いた。泣いたのは、嫁いでからそれが初めてだった。風呂から上がる頃には、もう泣いた顔ではなかった。月に一度、便所を汲み取って、肥桶を天秤で畑へ運ぶのも嫁の仕事だった。最初の日、春江は畦で足を取られ、桶の中身を半分、自分の足袋にこぼした。垣根の向こうで、ふみが腹を抱えて笑っていた。
「それで、あんたも一人前じゃ」
「こんな一人前、いらん」
「いらんでも、もうなっとる。この村の嫁はな、肥えをかぶって、一人前になるんじゃ」
その晩、春江は井戸端で足を何度も洗った。洗いながら、なぜか笑いがこみ上げてきて、止まらなかった。数日後の昼、畑から戻ったイネが、台所をのぞいて言った。
「水加減は、指の第一関節じゃ。明日はそれでやってみい」
そう言い置いて、イネはまた出ていった。翌朝、春江は指を米の上に当てて、水の高さを確かめた。蓋をし、火を落とす頃合いを待った。炊き上がった飯は白く、湯気に甘い匂いがあった。釜の前で、春江はひとり、頬をゆるめた。その週の終わり、実家から小包が届いた。新聞紙に包まれた米が一升、漬物の瓶、干し芋。そして、折り畳まれた便箋が一枚入っていた。母の字で、ひらがなばかりの文が並んでいた。
「はるえへ。げんきでおるか。ごはんはたべとるか。つらいときはかえってきなさい。つらくなくても、かえってきなさい。おかあちゃん」
春江はその手紙を、台所の隅で三回読んだ。四回目は声に出さず、唇だけで読んだ。読み終えると、丁寧に畳んで、前掛けのポケットに入れた。夕飯の膳に、実家の漬物を小鉢に盛って出した。
「これは」
イネが箸でひと切れつまんだ。
「実家から送ってきました。……お口に合うか、分かりませんが」
イネは物も言わずに口に入れ、ゆっくり噛んだ。噛み終えると、源蔵のほうへ小鉢を回した。
「……うちのより、塩がきいとるな」
「すみません」
「ええ。ええ味じゃ」
それきり、イネはまた箸を動かした。春江は前掛けのポケットの上に、そっと手を当てた。ここは知らない家の、知らない台所だった。けれど、昨日よりいくらか、知っている場所になっていた。




