第二部 門の家 嫁入りの日
話は、思いのほか早く進んだ。結納が済み、日取りが決まり、嫁入り道具が揃えられていく。簞笥と長持が運び込まれ、布団が仕立てられ、母が夜なべで縫った着物が1枚ずつ風呂敷に包まれた。そのあいだも春江は、いつものように台所に立ち、いつものように笑い、縁側で爪を切る姉の隣に座った。変わったのは、その隣に座っている時間が、少しずつ長くなったことだけだった。嫁入りの前の晩、きょうだいが集まった。正月とは違う、どこか静かな座敷だった。誰かが冗談を言い、誰かが手を叩いたが、笑い声はいつもより少し早く途切れた。春江は自分の荷物を、何度も詰め直していた。櫛。裁縫箱。母が持たせてくれた小さな鏡。縁側でそれをぼんやり見ていた正一が、独り言のように言った。
「おちび。しんどうなったら、いつでも帰ってこい」
春江は荷物から顔を上げなかった。鏡を風呂敷のいちばん上に置き、それからもう1度取り出して、いちばん下に包み直した。
「うん」
返事はそれだけだった。
その晩、母は春江を風呂に誘った。
「一緒に入ろうか」
「もう、子どもじゃない」
「ええから。最後じゃけん」
狭い風呂場に、2人で並んでしゃがんだ。湯気の中で、母が春江の背中に手拭いを当て、ごしごしと強く擦った。くすぐったくて、春江は肩をすくめた。
「大きゅうなったのう」
「そうか」
「背中が。昔は、こんなに小さかった」
母は手を動かしながら、ぽつりぽつりと話した。
「味噌は、煮立たせたらおえん。香りが飛ぶ」
「うん」
「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ。赤子泣いても蓋とるな」
「それ、知っとる」
「知っとっても、忘れるんじゃ。……それから、分からんことは聞きんさい。聞くのは恥ずかしいことじゃない」
「うん」
「あんたに料理をちゃんと仕込まんかったのが、お母ちゃんの、いちばんの心残りじゃ」
「ひどい」
「ほんまのことじゃ。あんたの卵焼きは、焼いとるんか、炭にしとるんか分からん」
「炭は、体にええんよ」
「そがいなこと、向こうのお舅さんの前で言うなよ」
二人して、肩を揺すった。
「あとは……あとは」
母の手が止まった。湯気で、顔が見えなかった。春江が振り向こうとすると、母はその肩をそっと押さえた。
「前、向いとき」
「……うん」
しばらくして、母は湯桶で、春江の背中に湯をかけた。温かい湯が背中を流れ落ちていった。
「ええ嫁さんに、ならんでもええ。あんたが、あんたでおれたら、それでええ」
春江は前を向いたまま、うなずいた。声は出さなかった。風呂から上がると、母は春江の髪を、手拭いで長いこと拭いていた。
朝、母は春江の帯を、後ろから無言で直した。何度も直した。もう直すところは、どこにもなかった。白無垢の裾を持ち上げて、春江は門をくぐった。振り返らなかった。門の外で一度だけ足を止め、それから、まっすぐ歩き出した。門の内側では、兄も姉も、誰も何も言わずに、その背中を見送った。迎えの車は、山道をゆっくりと下っていった。山が後ろへ遠ざかり、窓の外の景色がだんだんと開けていく。谷が終わると、田が平らに広がっていた。荷車と自転車がすれ違い、遠くでバスの警笛が鳴った。田の向こうの松林から、五重塔の屋根がのぞいていた。春江は、生まれて初めて、これほど広い空を見た。門の家に着くと、近所の子どもらが花嫁を見ようと、垣根に鈴なりになっていた。春江は仏間で先祖に手を合わせ、それから縁側に出て、紅白の菓子を撒いた。子どもらが歓声を上げて拾い合った。一人だけ、拾わずに垣根の外に立っている若い男がいた。青い作業シャツの袖をまくり、腕を組んで、つまらなそうに花嫁を見ていた。その日から六十年あまり、その男とは垣根越しに嫌味を言い合うことになるのだが、そのときの春江には、ただの通りがかりの人にしか見えなかった。ここで暮らすのだ、と思った。思ったけれど、まだ胸の中で、うまく言葉にならなかった。




