見合い
中学を出た春、春江の組の女の子の半分が、町から来た汽車に乗っていった。大阪や倉敷の紡績工場へ働きに出るのだった。駅のホームで、皆がセーラー服のまま泣いていた。春江は残った。母が腰を痛めて、畑に出られない日が増えていたからだった。春江は畑を手伝い、牛の世話をし、冬は町の和裁の先生のところへ通って、針を習った。運針は、料理と違って、すぐに上達した。
その話は、仲人の奥さんが風呂敷包みを抱えて訪ねてきた日に始まった。座敷で長いこと母と話し込み、帰りしなに玄関で振り返って、春江の顔をしげしげと見て、意味ありげに頬をゆるめた。春江は台所の柱の陰から、それを見ていた。何の話かは、聞かなくても分かった。春江は18になっていた。置いていった風呂敷の中に、写真が一枚入っていた。背広を着た若い男が、写真館の椅子に浅く腰かけて、こわばった顔でこちらを見ていた。
「首が長いのう」
和江が言った。
「鶴じゃ」
トミが言った。
「こら。人さまを、見てくれで言うもんじゃない」
母が叱ったが、母の口もとも少し笑っていた。
「縁は異なもの、味なもの、いうてな。会うてみにゃ、分からんのよ」
吉備のほうの、平野の村の人だった。役場に勤めながら、家の田も作っているという。長男で、親と同居。山はないが、田は広い。仲人の奥さんが母に話していたことを、春江は柱の陰で全部聞いていた。その晩、春江は縁側に出て、暗い山を見た。山の稜線は、星の少し下で、黒く空を切りとっていた。生まれてから18年、毎晩この線を見て眠った。平野の村には、この線がないのだと思った。
「寒いじゃろ」
正一が、綿入れを持ってきて、物も言わずに春江の肩にかけた。そのまま隣に腰を下ろして、同じ山を見た。兄の口は、最後まで開かなかった。
見合いの日、嫁いだ寿美が朝から帰ってきて、帯を締め直した。キヨが髪を結い、和江が鏡を持ち、トミは足袋を探して家じゅうを駆け回った。春江はされるがまま、人形のように立っていた。
「鬼も18、番茶も出花じゃ。おちびでも、今日ばかりは見られる顔になっとる。笑いんさい」
「笑うとる」
「顔が笑うとらん」
「……これで、精いっぱいじゃ」
見合いの席は、町の仲人の家の座敷だった。春江はほとんど口をきかなかった。出された茶を飲み、菓子には手をつけず、仲人の話にうなずいた。相手の男も口数が少なく、2人の間には、庭の池で鯉の跳ねる音だけがした。男が茶碗を置くとき、手がかすかに震えていた。爪の間に、洗っても落ちない土が残っていた。春江はそれを見て、こわばっていた肩が、いくぶんほどけた。仲人夫婦が席を外したあと、長い沈黙があった。男が、意を決したように口を開いた。
「山の畑では、何を、作っとられますか」
春江は顔を上げた。
「菜っ葉と、大根と、芋と……」
言いかけて、止まらなくなった。段々の畑のこと。石垣の隙間に蛇がいること。菜っ葉の裏の青虫のこと。母が、虫の食う菜はうまい菜じゃと言うこと。鶏の茂のこと。気がつくと、男が笑っていた。声を殺して、肩を震わせていた。春江は自分が何をしゃべったのかに気づいて、耳まで赤くなった。
「すみません。虫の話なんか」
「いいえ」
男は首を振った。
「わしは、役場で、毎日、紙ばっかり見とります。虫の話のほうが、ずっとええです」
それきり、男はまた黙った。春江も黙った。鯉が、ひとつ跳ねた。帰り道、寿美が横から顔をのぞきこんだ。
「どうじゃった」
「……お茶が、おいしかった」
「そがいなことじゃのうて」
寿美は呆れたように笑って、それ以上は聞かなかった。
返事は、すぐにはしなかった。父は「お前が決めえ」と言った。母は口をつぐんでいた。村では、あっという間に噂が回った。山の家の末娘が、平野の役場の人と見合いをしたらしい。役場の人なら食いっぱぐれはない。いや、長男で親と同居じゃ、苦労するで。春江が知らない人まで、春江の行く末を知っているような口ぶりだった。春江は、決められなかった。嫌ではなかった。けれど、山の線のない土地で暮らす自分を、どうしても思い描けなかった。2週間ほどたった日曜の昼、門の外で、自転車のブレーキの軋む音がした。春江が出てみると、あの男が立っていた。背広ではなく、白いシャツの袖をまくっていた。シャツは汗で背中に貼りつき、ズボンの裾は泥だらけで、自転車の泥よけが一枚、ぐにゃりと曲がっていた。
「……どうしたんですか」
「畑を、見せてもらおうと思うて」
男は、平野の村から、峠を2つ越えて、自転車で上がってきたのだった。3時間かかったという。春江は言葉が出なかった。母が奥から出てきて、男の格好を見て、一瞬目を丸くした。が、すぐに井戸へ行って、手拭いを冷たい水で絞ってきた。
段々の畑を、いちばん上まで案内した。男は息を切らしながら登り、上の段に着くと、谷を見下ろして、長いこと言葉を失っていた。
「ええところですね」
「何もないところです」
「山があります」
男は、それしか言わなかった。帰りに、峠の地蔵さんのところまで送った。男は荷台にくくりつけてきた包みを、そこで解いた。町の菓子屋の饅頭の箱だった。坂道で何度か転んだらしく、箱の角はつぶれ、中の饅頭は二つとも、少しひしゃげていた。
「すみません。こんなんになって」
男は2つとも、春江に差し出した。春江は一つを受け取って、半分に割った。片方を、男の口もとに差し出した。男は目を白黒させた。やがて、おずおずと口を開けた。春江はそこに、饅頭を押し込んだ。地蔵さんの前で、二人は、ひしゃげた饅頭を半分ずつ食べた。地蔵さんの足元には、誰が供えたのか、まだ新しい草鞋が一足、置いてあった。
「うちは、平らな田ばっかりで、山がありません」
男が言った。
「それでも、ええですか」
春江は、すぐには答えなかった。谷の向こうの寺の屋根を見た。ひと呼吸おいて、言った。
「山は、ときどき、帰って見ます」
男は、何度もうなずいた。うなずきながら自転車にまたがり、坂を下りはじめて、最初の角で、派手に転んだ。
その晩、春江は父の前に座った。
「お父ちゃん。うち、行く」
父は煙管を置いた。
「決めたんか」
「うん」
「何で、決めた」
春江は、少し考えた。
「あの人の自転車の、泥よけが曲がっとった。坂で、何べんもこけたんじゃと思う」
父はしげしげと春江の顔を見ていた。やがて煙管を取り上げて、火のついていない雁首を、長いこと見つめていた。
「……ほうか」
父はそれだけ言った。台所で、母が鍋を洗う音が、少しのあいだ止まっていた。




