寿美姉ちゃん
次姉の寿美が嫁ぐことになったのは、春江が12の秋だった。寿美は、春江が物心ついたときから、台所にいた。母が畑に出ているあいだ、竈に火を入れ、8人分の飯を炊き、味噌を溶いた。皿を洗いながら、いつも流行り歌を口ずさんでいた。調子は外れていなかった。山の家で、歌のうまいのは寿美だけだった。相手は、峠を2 つ越えた先の町の、桶屋の長男だという。
「桶屋さんは、ええよ。水が漏れたら、すぐ直してもらえる」
トミが言うと、寿美は白い歯を見せた。
「桶屋に嫁ぐんじゃのうて、人に嫁ぐんじゃ」
春江には、その違いが腑に落ちなかった。分かっていたのは、寿美が家からいなくなる、ということだけだった。
嫁入りの前のひと月、寿美は春江を台所に立たせた。
「おちび。うちがおらんようになったら、あんたが台所の手伝いをせにゃならん」
「和江姉ちゃんがおる」
「和江もトミも、もうじき嫁に出る年じゃ。この家にいちばん長うおるのは、あんたなんよ」
寿美は、飯の炊き方を教えた。味噌汁の出汁のとり方を教えた。大根の切り方を教えた。春江は一生懸命に覚えた。覚えたつもりだった。最初に一人で炊いた飯は、底が真っ黒に焦げた。2度目は、芯が残った。3度目は、釜から湯気と一緒に、焦げた匂いと芯の残った匂いが、同時に立ちのぼった。
「なんで、両方できるん」
寿美が、心から不思議そうに言った。
「……才能じゃ」
寿美は笑いすぎて、竈の前にしゃがみこんだ。ひとしきり笑ってから涙を拭いて、春江の頭を撫でた。
「ええわ。あんたは、ほかのことができる子じゃけん」
そのほかのことが何なのか、寿美は言わなかった。
嫁入りの朝、春江は姿を消した。家じゅうが探した。見つけたのは寿美だった。春江は、葉たばこの乾燥小屋の隅で、膝を抱えて座っていた。小屋の中は、まだ夏の葉の匂いが残っていた。白無垢を着た寿美が、裾をからげて小屋に入ってきた。
「おちび。何しとるん」
「……隠れとる」
「見たら分かる。はぶてとるんじゃろ」
「はぶてとらん」
口をとがらせて言う春江の頬は、ふくれた餅のようだった。寿美は、春江の隣にしゃがんだ。着物が汚れるのも構わなかった。
「行かんでええが。ずっと、ここにおったらええが」
春江は膝に顔を埋めたまま言った。寿美は何も答えなかった。小屋の板の隙間から、朝の光が細く差しこんでいた。やがて寿美は、小さな声で歌い出した。台所で毎日歌っていた、あの流行り歌だった。1 番を歌い終えると、春江の肩を、とん、と叩いた。
「この歌は、置いていくけん。あんたが歌いんさい」
「うち、下手じゃ」
「知っとる。下手でも、歌いんさい。歌っとったら、台所が寂しゅうない」
寿美は立ち上がって、着物の裾を払った。藁屑がいくつも落ちた。
「ほな、行ってくるけん」
春江は顔を上げられなかった。寿美の足音が、小屋の外へ遠ざかっていった。その晩、母は夕飯の膳を並べながら、うっかり八人分の椀を出した。一つ多い椀を見て、母は手を止めた。そして、何も言わずに、その椀を棚に戻した。春江はそれを見ていた。台所で皿を洗いながら、春江は寿美の歌を小さく口ずさんでみた。ひどい調子だった。それでも、最後まで歌った。台所の寂しさが、ひとしずくぶん、薄まった気がした。




