田植え
代掻きの済んだ田には、逆さまの空が入っていた。畦の白い小石も、腰をかがめた人の菅笠も、水の中で揺れる。苗を握る春江の指のあいだから、冷たい泥がゆっくりと盛り上がった。田植えは、手間替えでやった。今日は門の家、明日は橋のたもと、明後日は柿の木の家と、家々が互いに人手を貸し借りして、順繰りに田を植えていく。門の家の番の日には、一族が、親戚もそのまた親戚も、朝から総出で畦に並ぶ。遠くから手伝いに来た人は、そのまま門の家に泊まった。春江も、嫁いで初めての田植えに腰を折って並んだ。苗を一株ずつ泥の中へ挿す。足が沈み、抜くたびに、ずぼっと音がした。
「春江さん、曲がっとるで」
隣の列から、ふみが冷やかした。
「曲がっとらん。田んぼのほうが曲がっとるんじゃ」
「口は達者じゃな」
畦に笑いが広がった。昼と、昼下がりの小昼には、皆で畦に座り、握り飯をほおばった。小昼というのは、野良仕事の合間に腹の虫をなだめる、ひと休みの軽い食い物のことである。泥だらけの手で食べる握り飯は、塩がきいて、やけにうまかった。春江も十ばかり握った。形は三角とも丸ともつかず、中の梅干しが外にはみ出しているものもあった。
「これは、誰のじゃ」
源蔵が、梅干しのむき出しになった握り飯をしげしげと眺めた。
「……春江さんのじゃ」
ふみが、肩を震わせて答えた。
「梅が、逃げとる」
「逃げたんじゃのうて、出たがったんです」
「出たがるな」
源蔵は真顔で、それを食べた。酸っぱさに顔をしかめ、それでも、もう一つ手に取った。春江は膝の上で拳を握って、笑いをこらえた。イネは、遠くの苗を睨むように見ていた。それでも、春江の握り飯の取り分が一つ足りないのに気づくと、何食わぬ顔で、自分の分を一つ回してよこした。
午後、畦道を、青い作業シャツの男がぶらぶらと歩いてきた。一族の中でも、とりわけ目立つ男だった。年じゅう同じ青いシャツを着ているので、村の子どもたちは陰で「青シャツ」と呼んでいた。本当の名は利平という。親の代からの田を人に任せきりにして、自分は他人の田のあら探しばかりしている、と村の者は言った。
「ほう、門の家の新しい嫁さんか。苗が、えらい曲がっとるのう」
利平は、春江の列を顎でしゃくった。
「山のもんは、田んぼが下手じゃけんな」
春江は苗を持ったまま固まった。
「利平さん、あんたの田は、誰が植えとるんじゃ」
ふみが、腰に手を当てて言った。
「……うちは、人を頼んどる」
「人に頼んで、他人の苗に文句を言うな」
畦に、くすくす笑いが広がった。利平は耳を赤くして、何かもごもご言いながら去っていった。
「いつものことじゃ。気にせんでええ」
ふみが言った。
「いつも、なんですか」
「あの人はな、誰かを下に見んと、気が済まん性分なんじゃ」
春江は、去っていく青い背中を見送った。その背中が、畦の端で一度だけ立ち止まり、春江の植えた曲がった列のほうを振り返ったのを、春江は見なかった。
夕方、用水路で泥足を洗って振り返ると、さっきまで水ばかりだった田に、細い苗がずらりと並んでいた。曲がった列もあれば、まっすぐな列もある。夕日が、その全部を同じ色に染めていた。春江は畦に立ったまま、根が生えたように動かなかった。肩の力が、ふっと抜けた。
その晩は、さなぶりだった。田植えを終えた一族が門の家の座敷に集まり、苗の束を三把、神棚に供えて、酒を酌み交わす。男たちは赤い顔で田植え歌をがなり、女たちは台所と座敷を何十回も往復した。春江は燗の番をしながら、皆の声を聞いていた。座敷の隅で、利平がひとり、手酌で飲んでいた。誰かが「利平、なんか歌え」と言うと、利平は「わしは歌わん」と言った。皆がそれぞれ歌い終わり、座が静かになりかけた頃、利平は急に、低い声で一節だけ歌った。古い、哀しい節の田植え歌だった。誰も知らない歌だった。
「それは、誰に習うたんか」
源蔵が聞くと、利平は盃を置いた。
「お袋じゃ」
そう言い捨てると、利平は先に帰っていった。座敷はひととき、妙に静まり返った。春江は燗をつける手を止めて、利平の座っていた座布団を見ていた。夏は草取りだった。照りつける日差しの下で腰を曲げ、稲のあいだを這う。蛭に吸いつかれて悲鳴をあげ、それを見たふみに、また笑われた。秋になると、田は金色に変わった。朝、見回りに出ると、風が吹くたびに穂が波のように揺れ、一面が、ざあっと音を立てた。
「ああ」
思わず声が出た。自分の植えた苗が、こんなふうに育ったのだ。新米を炊いた晩、春江は釜の前で緊張していた。水加減は、指の第一関節。蓋をして、火を落とす。炊きたての飯を、まず仏壇に供え、それから膳に並べた。源蔵がひと口食べて、箸を止めた。
「……今年のは、ええ飯じゃ」
誰に向けた言葉なのか、知る由もなかった。イネが小さくうなずいた。進はものも言わず、二杯目をよそった。源蔵は、田の出来がよければ「土がええ」と言い、悪ければ「人間がまだまだじゃ」と言った。少しずるい理屈だと春江は思ったが、間違ってはいないとも思った。




