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土の匂い  作者: 畑野春樹
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聞けなかったこと

その夜、浩二はなかなか眠れなかった。


昼間、兄弟に電話をかけたときのことを思い出していた。


「母さんに、聞いてみようと思うんじゃ。これまでのこと」


「聞いても、笑うて、はぐらかすぞ」


健一の声は、いつもどおり短かった。それから少し間をおいて、言った。


「……聞くんなら、今のうちじゃ」


大阪の和也が、三者で話せる電話に割り込んできた。


「母ちゃんは、聞かれたら、うれしいんじゃ。分かるじゃろ、あの人は」


「……ほうじゃな」


「兄貴も、一緒に聞けや」


「……わしは、ええ」


「ほら、兄貴、照れとる」


電話の向こうで、健一が小さく咳払いをした。


実家の布団の中で、浩二は天井を見ていた。廊下の向こうの台所に小さな明かりがついているのが、障子越しに見えた。浩二はそっと布団を出て、廊下に立った。


台所の古い椅子に、母が座っていた。


背中をこちらに向けて、湯呑みを両手で包み、ぼんやりと窓の外を見ている。小さな背中だった。昔、戸の隙間からのぞいた、あの夜の背中と重なって見えた。


聞いてみたいことがあった。


なぜ、父が死んだあとも、この家に残ったのか。どんな思いで、三人の息子を育てたのか。あの夜、なぜ、ここで泣いていたのか。


足が、台所の入口で止まった。声が出なかった。


母が気配に気づいて、振り返った。浩二の顔を見て、少し目を細め、ふっと頬をゆるめた。


「あんた、まだ起きとったんか。明日も役場じゃろうが」


浩二は、息を止めた。


母の目は、浩二を見ていた。けれど、浩二を見てはいなかった。


タクシーの運転手の声が、耳の奥でした。お父さんに、よう似とる。


「……うん」


浩二は、それだけ答えた。


「座りんさい。お茶、いれるけん」


母は急須を取り、湯呑みをもう一つ出した。進の湯呑みだった。父が死んでから五十年あまり、食器棚の奥にしまわれたままの、縁に藍の線が一本入った湯呑みだった。


浩二は椅子に座った。母は茶を注ぎ、自分の湯呑みを両手で包んで、窓の外の暗い田を見た。


「健一はな、県の仕事をしよるよ。百姓の家を回って、土の相談に乗る仕事じゃ。あんたに似て、口は重いけど、ようやりよる」


母の声は、穏やかだった。


「浩二は、東京じゃ。電話はな、日曜にかけてくる。三人とも、同じ晩に。示し合わせとるんよ、あの子ら。うちは知らんふりしとるけど」


浩二は湯呑みを持ったまま、動けなかった。


「和也は、消防士になった。足が速いのは、うちに似たんじゃ。あんたは、走るのは遅かったけんな」


母はくすりと笑った。そうして、しばらく口をつぐんだ。窓の外で、虫が鳴いていた。


「あんたが、おらんようになってから」


母の声が、ひときわ低くなった。


「ほんまは、しんどかったんよ。ここで、何べんも泣いた。あの子らには、内緒じゃ」


浩二の手の中で、湯呑みが小さく鳴った。


「ほいでもな。泣いても、朝になったら、あの子らが起きてくるじゃろ。腹へった、言うて。そしたら、味噌汁を作らにゃならん。作りよったら、泣いとる暇がのうなるんよ」


母は湯呑みを、そっと置いた。


「うち、ようやったじゃろ」


浩二は、答える言葉を探した。父なら何と言うだろう。会ったことのない父の声を、浩二は知らない。それでも、言わなければならないと思った。


「……ようやった」


声が、かすれた。


「ほんまに、ようやった」


母は、ゆっくりと浩二の顔を見た。皺だらけの顔が、子どものようにほどけた。


「あんたに、そう言うてもらいたかったんじゃ」


それから母は、ひとつ、まばたきをした。


目の色が、ふっと変わった。母は、不思議そうに浩二を見た。


「……こうちゃん? なんで起きとるん。眠れんのか」


「……うん」


「お茶、いれようか」


母は浩二の前の湯呑みに気づいて、首をかしげた。


「あら。もう、いれとったんか」


「うん。母さんが、いれてくれた」


「ほうか」


母は自分の湯呑みに口をつけた。二人で、言葉もなく茶を啜った。


聞けなかったことの答えを、浩二は聞いてしまった。自分に向けられた言葉ではなかった。それでよかったのだと思った。母は五十年あまり、この言葉を、言う相手を待っていたのだ。

藍の線の入った湯呑みを、浩二は自分で洗って、食器棚の奥に戻した。

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