ご飯、作ろうか
帰った翌朝、浩二が起きていくと、母が仏壇にお仏飯を供え、鈴を鳴らして、写真に話しかけていた。
「こうちゃんが、帰ってきたで。あんたより、もう二十五も年上じゃ。頭なんか、あんたより白いんよ」
写真の父は、三十四のまま笑っている。浩二は廊下で足を止めた。自分が父の年を追い越したのは、もう二十五年も前のことだった。そのとき何を思ったのかは、覚えていない。けれど母は、その日から毎年、一つずつ数えていたのかもしれなかった。
母は浩二に気づくと、照れもせずに言った。
「お父さんにな、報告しとったんじゃ。あんたも手を合わせんさい」
浩二は母の隣に座って、線香をあげた。煙がまっすぐ上がった。
朝の茶をすすりながら、母が楽しそうに言った。
「今朝な、もう朝市へ行ってきたんよ」
浩二は湯呑みを持つ手を止めた。母は夜明けから、ずっと家にいた。浩二は、廊下を行き来する母の足音を、布団の中で聞いていた。
違う、と言いかけて、浩二は電話の向こうの、あの沈黙を思い出した。健一の声を思い出した。直されると、本人は何が違うとるのか分からんまま、恥だけかく。
「……売れた?」
母の顔が、ぱっと明るくなった。
「売れた、売れた。トマトがな、昼前に全部のうなった。まけてくれ言う人がおったけん、葱をつけてやったんじゃ。そしたら、その人、知り合いを三人も連れてきてな」
浩二は知っていた。それは四十年以上前の、ある土曜の話だった。荷台の箱を押さえていた十歳の自分が、その場にいた。葱をつけてもらった女が、次の週、知り合いを三人連れて戻ってきたことも、覚えていた。母の虫食いの野菜が売れはじめたのは、あの日からだった。
「母さんの葱は、うまいけんな」
「そうじゃろ」
母は胸を張った。浩二は茶を飲んだ。母の中の朝市は、今朝もにぎわっていた。トマトは昼前に売り切れ、葱をもらった客は知り合いを連れて戻ってくる。そこに嘘は一つもなかった。ただ、日付が少し違うだけだった。
八十三の母の食事は、健一の手配で、毎日届けられるようになっていた。
浩二が帰ると、台所に立つのは浩二の役目になる。冷蔵庫から弁当を出し、温め直し、器に移して食卓に並べる。昔、母がしてくれたことを、今は浩二が母にしている。
弁当の蓋を開けると、母は必ず検分を始めた。
「この大根は、うちのほうがうまい」
「そうじゃな」
「この卵焼きは、甘すぎる」
「そうかね」
「人参の切り方が、雑じゃ」
「母さん、全部食べとるが」
「食べるんじゃ。もったいないけん」
母は文句を言いながら、毎回きれいに平らげた。弁当箱は、洗ったように空になった。
昔、母は食べる前に、いつも家族の皿を見回していた。今は母が、息子の並べた皿を検分している。忘れることが増えても、食卓の主導権だけは、母の手元に残っていた。
二日目の昼、浩二が弁当を温めていると、母が台所の入口に立った。
「ご飯、作ろうか?」
浩二は箸を並べる手を止めた。
母は腰を少し曲げて、それでもまっすぐに浩二を見ていた。冷蔵庫に弁当が入っていることを、母は覚えているのかもしれないし、忘れているのかもしれない。前のように料理ができないことを、分かっているのかもしれないし、分かっていないのかもしれない。どちらにしても、息子に何かしてやりたいという気持ちだけは、少しも欠けずに、そこにあった。
「ほな、味噌汁だけ、作ってくれる?」
母の顔が明るくなった。
「うん。作ろう」
母はゆっくりと袖をまくった。小さな鍋に水を張って火にかけ、いりこを入れる。昨日の夕方、畑で転びかけてまで抜いた葱を、まな板の上で刻む。途中で、いりこをもう一度入れようとした。浩二が「さっき、入れたで」と言うと、母は「二度入れたら、二倍うまいんじゃ」と言って、入れた。
手つきはゆっくりだった。けれど味噌を溶く指の動きには、迷いがなかった。六十年、毎朝してきたことを、母の手は、母の頭より先に覚えていた。浩二はその背中を、台所の椅子から飽かず眺めていた。
湯気が立ちのぼり、昔と同じ匂いが台所に広がった。
「ほれ」
差し出された椀は熱かった。浩二はひと口すすった。
しょっぱかった。いりこの味が、ひどく濃かった。
「……うまい」
「そうかね」
母は満足そうに笑って、自分の椀に口をつけた。
浩二は椀を両手で包んで、冷めるまで少しずつすすった。東京で何度作っても、あの雑煮の味にならなかった理由が、ようやく腑に落ちた気がした。母の料理は、いつも誰かのために、その日その日で作られていた。同じ味にならないのは、当たり前だった。




