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土の匂い  作者: 畑野春樹
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待つ人

母は、息子が帰ってくると聞くと、家の前に椅子を出して待つ。


緑色の座面がすっかり色褪せた、古い折りたたみ椅子。朝のうちから、そこに座っていることもある。椅子から見える景色は、昔からあまり変わらない。道の向こうの電柱。畑の葱の列。風に揺れる柿の木。遠くを走る車の音。母はそれらを順に眺めている。

その椅子は、昔、運動会の見物のために、源蔵が農協で買ってきたものだった。親子リレーの日、母が前掛けを外して運動場へ駆け出したとき、空になって転がっていたのも、この椅子だった。

その隣に、ときどき、ふみが自分の椅子を持ってきて並んだ。


「また、待っとるんか」


「待っとらん。涼んどるだけじゃ」


「三時間も、涼んどるんか」


「ええ風じゃけん」


ふみの補聴器が、ぴいっと鳴った。


「あんたの息子、いつ来るん」


「三時ごろじゃ」


「今、何時」


「二時」


「まだ一時間も、あるのう」


「ええんじゃ。待つのも、楽しいんじゃ」


母はそう言って目を細めた。ふみは補聴器をもう一度ぴいっと鳴らして、うなずいた。


しばらくして、母が、ふと思い出したように言った。


「ふみさん。今日は、誰か来るんじゃったかな」


「こうちゃんじゃが。三時に」


「ああ、ほうじゃった」


母はうれしそうにうなずいた。十分もすると、また同じことを聞いた。ふみは補聴器をいじりながら、同じ調子で答えた。


「こうちゃんじゃが。三時に」


何度聞かれても、ふみは一度も、さっきも言うたが、とは言わなかった。六十年、同じ垣根越しに暮らしてきた人の答え方だった。


道の向こうに人影が現れるたびに、母の背筋がしゃんと伸びる。違う人だと分かると、ゆっくりと元に戻る。


その年の秋、浩二は久しぶりにまとまった休みを取った。母が石段で見つかってから、半年がたっていた。電話の声だけでは分からないものを、自分の目で見ておきたかった。電話をすると、母はいつものように言った。


「帰らんでもええよ」


言葉とは裏腹に、電話の向こうで何かを動かす音がした。たぶん、玄関の椅子を出している。母は昔から、待っていないふりをするのが下手だった。


新幹線を降り、在来線に乗り継ぎ、駅からタクシーに乗った。乗り換えるたびに景色は緑を増し、最後には、窓の外が田んぼばかりになった。刈り取りを終えた田に、短い刈り株が行儀よく並んでいた。浩二は時計を見た。午後二時五十分。母には、三時ごろ着くと伝えてある。


「お客さん、門の家の浩二さんじゃろ」


運転手がバックミラー越しに言った。


「え。どうして分かるんですか」


「顔じゃ。お父さんに、よう似とる」


浩二は父の顔を、写真でしか知らない。


「わしは、橋のたもとの者じゃ。あんたとは、そうじゃなあ、三代前くらいで枝が分かれとる」


「三代前……」


「この村じゃ、タクシーに乗ったら、みんな親戚よ」


最後の坂に入ると、運転手は声を少し落とした。


「今朝、前を通ったら、お母さん、もう椅子に座っとったで」


「今朝?」


「七時ごろじゃったかな」


浩二が到着の時刻を電話で伝えたのは、昨日の夕方だった。


「……そんなに、早くから」


「先週もな、お母さん、道ばたで手を挙げて、うちの車を止めたんじゃ。町のスーパーまで、言うてな」


運転手はハンドルを切りながら、何でもない話のように続けた。

「財布も持っとらんかった。せえで、村をぐるっと一回りして、スーパーへ着きましたで、言うて、家の前で降ろしたんじゃ。お母さん、ああ、ようけ買い物した、言うて、喜んどった」


「料金は……」


「茄子を三本もろうた。釣りが出るわ」


浩二は、礼の言葉を探した。見つからないうちに、運転手が言った。


「健一さんには、言うとる。気にせんでええ。この村は、まあ、そういうとこじゃ」


運転手は、それ以上は言わなかった。言わないところが、かえって多くを語っていた。


最後の角を曲がると、椅子が見えた。母が座っていた。


膝に湯呑みを載せ、背筋を伸ばし、道の向こうを見つめている。村の入口を守る番人のようだった。


浩二はうれしかった。うれしいのに、胸のどこかが、きゅっと縮んだ。老いた母の小さな背中。膝の上の湯呑み。まっすぐに伸ばした背筋。母は何を思って、ここで待っているのだろう。


子どもの頃、浩二が部活で遅くなる夜、母は玄関の灯りをずっとつけたままにしていた。そんなことを、ふと思い出した。


「母さん」


窓を開けると、母の顔がぱっとほどけた。八十三年分の皺が、いっせいに綻んだ。


「ああ、帰ってきた」


「ずっと、座っとったん?」


「ちょっと、出てみただけよ」


母は湯呑みに目を落とした。茶は、すっかり冷めていた。


「ちょっとって、何時間」


「知らん。時計を持って出たわけじゃないけん」


「時計は家にあるじゃろ」


「家の時計を、ここから見られるかね」


母は勝ち誇った顔をした。理屈は合っていない気がしたが、八十三の母に言い勝ったところで、得るものは何もない。


荷物を持とうとすると、母は鞄の持ち手を離さなかった。


「ええよ、これくらい」


「重いけん、わしが持つよ」


「重うない」


「じゃあ、なんで両手で持っとるん」


「……大事なもんが入っとるけん」


結局、二人で鞄の持ち手を片方ずつ持った。玄関までの短い道で、親子は鞄をめぐって、小さな綱引きをした。


垣根の向こうから、しわがれた声が飛んできた。


「春江さん。息子が来たんか」


ふみだった。背中は丸いのに、声だけは村の有線放送よりよく通る。


「来たよ。こうちゃんじゃ」


「こうちゃん。大きゅうなったのう」


「もう五十過ぎとるよ、ふみさん」


「何を言いよる。うちから見たら、まだ鼻垂れじゃ」


ふみは日傘を振って笑い、それから、秘密を打ち明ける人の顔をした。声はまったく小さくならなかった。


「あんたのお母ちゃんな、朝から三回もうちへ来て、まだ来んかのう、言うて聞いたんで」


「ふみさん」


母が叫んだ。


「言うたらおえん約束じゃろ」


「そんな約束、した覚えはない」


「した」


「しとらん」


六十年来の友達らしく、二人は息ぴったりに言い争った。ふみは最後に「まあ、来たんじゃけん、よかったよかった」と言って、何ひとつ悪びれずに帰っていった。


浩二は苦笑した。苦笑しながら、胸の奥がじんと熱くなった。


家の中には、古い木と畳と、土の匂いがあった。仏間で手を合わせると、母が座布団をすっと出した。浩二が座る前に、もう茶の支度を始めていた。


夕方、母は突然立ち上がった。


「葱、抜いてくる」


「もう暗うなるで」


「汁に入れる分じゃ。葱の一本くらい、すぐじゃ」


止める間もなく、母は畑へ向かった。浩二が追いついたとき、母は葱の根元に指を差し込み、力いっぱい引いていた。


ぽん、と抜けた。


「ほれ、簡単じゃ」


その直後、母の足元がずるりと崩れた。体が傾いた。浩二は慌てて肘をつかんだ。


「母さん」


母は片足を土に埋めたまま、葱を握りしめていた。


「……大丈夫じゃ」


「大丈夫じゃないじゃろ」


「土が、柔らかかったんじゃ」


「土のせいにするな」


「土が、悪い」


あまりに真顔で言うので、浩二は吹き出した。母もつられて肩を揺すった。二人は畑の真ん中で、葱を握ったまま笑い続けた。浩二は、母の肘を、なかなか離せなかった。思っていたより、ずっと細い肘だった。


夜、浩二が風呂から上がると、母が仏間で小さな木箱を開けていた。風呂敷の隙間から、銀色の包みがちらりと見えた。


「母さん、それ、何?」


母は飛び上がりそうなほど肩を揺らして、箱の蓋を閉めた。


「なんじゃ、風呂、早かったな」


「何を隠しとるん」


「隠しとらん。しまっとるだけじゃ」


「箱に入れて、風呂敷で包んで、押し入れの奥に?」


母は黙った。やがて観念したように風呂敷をほどいた。中には、銀紙に包まれた饅頭が一つ入っていた。


「……饅頭?」


「饅頭じゃ」


「なんで、そんな大げさにしまっとるん」


「昨日、駅前で買うたんじゃ。あんたが来るけん」


母は目をそらした。


「ほいでも、あんた、もう子どもじゃない言うじゃろ。出したら、いらん言われるかと思うて」


浩二は、とうとう声を出して笑った。


「饅頭一つで、そんなに悩んだん」


「笑うんなら、食べんでええ」


「食べる、食べる」


浩二は饅頭を半分に割って、片方を母に差し出した。


「母さんも」


「うちは、ええ」


「ええから」


母は割れた饅頭を見て、少しのあいだ動かなかった。やがて、おずおずと受け取った。


二人は縁側に並んで、半分ずつ食べた。餡はしっとりとして、ほんのりと塩気があった。


「うまいな」


「そうじゃろ」


母はまるで自分がこしらえた饅頭のように、得意げにうなずいた。


饅頭を半分に割るのが、昔、父の口に半分を押し込んだ母の癖だったことを、浩二は知らない。浩二がなぜそうしたのか、浩二自身にも説明がつかなかった。母だけが知っていて、母は胸にしまったままだった。

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