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土の匂い  作者: 畑野春樹
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他人さまの手

母の物忘れが目立ちはじめた翌年、健一がヘルパーの話を持ち出した。


「週に二回でええ。掃除と、洗濯と、風呂のときの見守りだけじゃ」


母は、湯呑みを持ったまま、首を横に振った。


「いらん」


「母さん」


「いらん。うちは、まだ自分でできる」


浩二は東京から電話で加わっていた。和也は大阪から、正月にもう一度話そう、と言った。三人の息子が揃って説得にかかっても、母は首を縦に振らなかった。


「他人さまに、うちの台所を触られとうない」


「台所は触らせんでもええ。洗濯だけでも」


「洗濯物も、見られとうない」


「なんでじゃ」


母は答えなかった。


なぜいやなのか、母は自分でも、うまく言葉にできなかった。


廊下の隅の埃。押し入れに詰めこんだ、捨てられない箱。流しの下の、焦げついたままの鍋。それを他人に見られるのが恥ずかしい、というのも本当だった。けれど、それだけではなかった。


十九で嫁いでから、春江はずっと、誰かの世話をしてきた。舅と姑の、夫の、三人の息子の。姑の最後の二年は、下の世話までした。盥の湯で、姑の体を拭いた。


その自分が、今度は、拭かれる側に回る。


昔の年寄りは、よう言うた。人さまの世話になるようになったら、おしまいじゃ、と。姑のイネもそう言いながら、最後の二年を春江の手に預けた。あのときイネが、どんな顔で天井を見ていたか、春江は今になって思い出す。


ヘルパーを家に入れたら、それを認めることになる。認めたら、何かが終わってしまう気がした。終わるのが怖いのか、終わったあとの自分を見るのが怖いのか、それすら、自分ではつかみかねた。


夜、春江は台所の椅子に座って、ひとりでつぶやいた。


「意地っ張りじゃのう、あんたは」


夫に言ったのか、自分に言ったのか、そのどちらでもあったのだろう。


結局、春江は折れた。健一が、ひと言の理屈も並べずに、頭を下げたからだった。煙草で呼び出された日の、あの職員室の自分と同じ姿勢だった。春江はそれを見て、何も言えなくなった。

ヘルパーが来る日の朝、春江は夜明けから起きて、家じゅうを掃除した。


廊下を拭き、仏間に掃除機をかけ、流しの鍋を磨いた。焦げは落ちなかった。押し入れの箱を、別の押し入れに移した。洗濯物を全部洗って、全部畳んで、簞笥にしまった。曲がった腰で、それだけのことをするのに、昼までかかった。


昼過ぎにやって来たヘルパーは、三十代半ばの、丸顔の女だった。真由と名乗った。


真由は家に上がって、ぴかぴかの廊下と、空っぽの洗濯籠を見て、目を丸くした。


「……あの、今日は、何をさせていただいたら」


「何もないです。お茶でも、飲んで帰りんさい」


春江は座布団を出し、茶を淹れ、茶菓子に干し芋を添えた。真由は困った顔で座布団に座り、茶を飲んだ。そのあいだに春江は、真由の湯呑みが空になるたびに、二杯、三杯と注ぎ足した。

一時間後、真由は何一つ仕事をしないまま、腹をたぷたぷにして帰っていった。


健一から、その話を聞いた浩二は、電話の向こうで笑い転げた。


「ヘルパーさんを、接待したんか」


「笑い事じゃない。事業所から、どうしたもんか言うて電話があった」


そう言う健一の声も、どこか笑いを噛み殺していた。


三度目に来た日、真由は、縁側に座っている春江の隣に、断りもなく腰を下ろした。春江はまた茶を淹れようとしたが、真由がそれを止めた。


「春江さん。うち、子どもの頃、この村の朝市に来よったんです」


春江は手を止めた。


「母が、毎週土曜に、春江さんのトマトを買いよりました。うち、野菜が大嫌いで、何を出されても食べん子じゃったんです。でも、春江さんのトマトだけは、丸かじりしよった」


真由は、はにかんだ。


「むしも、すきな、あじです。……あの札、覚えとります。字が下手で、子どもが書いたんじゃなあ、思うて」


春江は、真由の顔を見た。丸い頬に、子どもの頃の面影を探そうとした。見つからなかった。朝市に並んだ若い母親たちの、手を引かれていた小さな子どもたち。その一人一人の顔を、春江は覚えていなかった。


けれど、子どもたちのほうは、春江のトマトを覚えていた。


「……あの札はな、うちの末の子が書いたんよ」


春江の声が、少し震えた。


「そうじゃったんですか」


真由は、うなずいた。そうして、縁側の端に置いてある洗濯籠を、そっと指さした。春江が、今朝、隠し忘れた籠だった。


「春江さん。台所は、春江さんの場所です。触りません。そのかわり、洗濯物だけ、畳ませてもらえませんか」


春江は、籠を見た。真由を見た。長いこと、膝の上で手を揉んでいた。


「……畳み方が、うちと違うたら、やり直すで」

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