鍵
七十八を過ぎた頃から、母の老いは、腰のほかにも目に見えるようになった。
階段の手すりを握っている時間が長くなる。台所の棚に、薬の袋が増えた。それでも母は、自分から何かを言うことはなかった。
ある日、家族が集まった席で、健一が言いにくそうに切り出した。
「母さん。運転、そろそろやめたほうが、ええんと違うか」
母は湯呑みを持ったまま、しばらく返事をしなかった。浩二は母の顔を見られなかった。
「……そうじゃな」
母はあっさりと言った。
「ええ。歩いたら、ええだけじゃ」
翌日、軽トラックの鍵が、母の手から健一に渡された。母は庭の隅に停めた古い車を、名残惜しげに眺めていた。やがてボンネットを、ごわごわした手で、ぽんぽんと二回叩いた。
「長いこと、世話になったのう」
その言葉が誰に向けられたのか、問う者はいなかった。
浩二は庭の端から、その光景を見ていた。体育館の石段で、この軽トラックを待っていた夜のことを思い出していた。
免許を返す日、母は警察署の窓口で、職員に何度も頭を下げた。それから風呂敷を解いて、茄子を三本取り出した。
「これ、うちの畑のです」
「いえ、こういうものは、受け取れんのです」
「ええんです。お世話になったけん」
押し問答の末、茄子は窓口の隅に置かれた。付き添っていた健一が、横で顔を赤くして立っていた。後日、署から丁寧な礼状が届いた。母はそれを、台所の壁に貼った。
軽トラックは、その秋、拓也に引き取られていった。
母が変わりはじめたことに、家族はなかなか気づかなかった。
鍋が焦げても、誰も驚かなかった。母の鍋は、昔から焦げていたからだ。同じ話を二度しても、年寄りはそんなもんじゃと笑って済ませた。冷蔵庫に、同じ豆腐が四丁並んでいるのを健一が見つけたのは、八十一の春だった。
日曜の夜、浩二はいつものように電話をかけた。
「今日はな、軽トラで朝市へ行ってきたんよ」
母の声は弾んでいた。
「トマトが、ようけ売れてな。まけてくれ言う人がおったけん、葱をつけてやったんじゃ」
浩二は受話器を握り直した。軽トラックは、もうない。朝市も、母が出なくなって十年になる。
「母さん、車はもう、健一兄ちゃんに……」
言いかけたところで、電話の向こうが静かになった。長い沈黙だった。やがて、母の声が、聞いたことのない細さで戻ってきた。
「……ほうじゃったかな」
それきり母は、天気の話をして、早々に電話を切った。浩二は暗い部屋で、切れた受話器を、いつまでも耳に当てていた。
すぐに健一に電話をした。
「知っとる。先月、医者に連れて行った」
健一の声は、いつもどおり短かった。
「なんで、言うてくれんかったん」
「言うて、お前が何かできるんか」
浩二は言葉に詰まった。健一も、しばらく口をつぐんでいた。
「……すまん。言い方が悪かった」
健一が、珍しく自分から謝った。
「先生がな、違う、とは言わんほうがええ、と言うとった。母さんの中では、ほんまのことなんじゃと。軽トラに乗ったんなら、乗ったんじゃ。直されると、本人は、何が違うとるのか分からんまま、恥だけかく」
「……うん」
「わしも、最初は直しよった。そのたんびに、母さん、ああいう顔をしよった」
ああいう顔が、どういう顔なのか、浩二には分かった。電話の向こうの、あの沈黙の顔だった。
大阪の和也は、その話を聞くと、少し考えてから言った。
「ええがな。母ちゃん、トマトがようけ売れたんじゃろ。ええがな」
浩二は笑おうとして、うまく笑えなかった。和也の声も、少し湿っていた。
健一が付き添った診察で、医者は母に、知っている野菜の名前をできるだけたくさん言ってください、と言った。
母は胸を張った。大根、白菜、茄子、胡瓜、トマト、葱、里芋、牛蒡、ほうれん草、春菊、玉葱、人参。そこで止まらなかった。
「ほいで、茄子は千両がええ。胡瓜は、近ごろのは皮が固うていけん。ほうれん草は、霜に当てたら甘うなる」
医者が苦笑いしながら止めるまで、母は二十八の野菜を挙げ、そのうち十一に講釈をつけた。ところがその直後、三つ前に聞いた言葉を思い出してくださいと言われると、母は困った顔をして、窓の外を見た。今日が何月何日なのかも、答えられなかった。
帰りの車で、母は助手席から、ぼんやりと田を眺めていた。
「あの先生、茄子の話を、ちゃんと聞いとらなんだ」
健一は前を見たまま、うなずいた。
「……母さんの茄子は、ええ茄子じゃ」
「そうじゃろ」
母は満足そうに目を閉じた。健一はそれから家に着くまで、一度もラジオをつけなかった。
ある夕方、母がいなくなった。
畑にも縁側にも台所にも、姿がなかった。ふみからの電話を受けた健一が、仕事を放り出して車を走らせた。休みで帰っていた和也が近所を走り回った。浩二は東京から新幹線に飛び乗った。
村じゅうが総出で探した。ふみが、杖代わりの日傘を振り回して先頭に立った。用水路をのぞく者がいた。山の墓地へ向かう者がいた。有線放送が、門の家の春江さんを見かけた方は、と二度繰り返した。
日が暮れかけた頃、利平が杖をつき、息を切らして畦道を歩いてきた。
「おったぞ。小学校じゃ」
もう何年も前に統合されて、子どもの来なくなった小学校だった。草の伸びた校庭の奥に、古い体育館だけが残っている。
母はその体育館の石段に、ひとりで座っていた。膝の上で手を重ね、暗くなっていく校門のほうを、じっと見ていた。
健一が駆け寄ると、母は顔を上げて、困ったように言った。
「こうちゃんが、まだ稽古から出てこんのじゃ」
健一は、その場で動けなくなった。
「今日は、火曜じゃろ。迎えに来んと、あの子、また歩いて帰らにゃならんけん」
体育館の窓は、とうに板で塞がれていた。
和也が、健一の後ろから、そっと母の前にしゃがんだ。
「母ちゃん。こう兄ちゃんはな、もう、先に帰っとるよ」
「ほんまか」
「ほんまじゃ。歩いて帰れた、言うとった」
母の肩から、すうっと力が抜けた。
「ほうか。……ほんなら、ええ」
和也は母の手を取って立たせた。その手が冷えきっていた。和也は自分の上着を母の肩にかけ、背を向けてしゃがんだ。
「乗りんさい。おんぶじゃ」
「いらん。歩ける」
「歩けても、乗りんさい。消防士のおんぶは、乗り心地がええんで」
母は少し笑って、和也の背中に乗った。軽かった。和也は唇を噛んで、校門まで、ゆっくりと歩いた。
夜遅く、東京から着いた浩二は、ふみからその話を聞いた。
「利平さんがな、まっさきに小学校へ行ったんよ。誰も、どこを探せとも言うとらんのに」
「なんで、分かったんですかね」
ふみは少し考えて、言った。
「あの人は、昔から、春江さんがどこにおるか、だいたい知っとる人じゃけん」
浩二は、台所の柱に掛かった古い暦の束を思い出していた。火曜と金曜の欄に、母の字で書かれていた、「こうじ むかえ」。母の中では、あの頃の暦が、まだめくられずに残っていたのだ。
四十年以上前の、たった一度の忘れ物を、母はずっと抱えていた。浩二がとうに忘れていた夜を、母は忘れられずにいた。今、母はほかのことを少しずつ忘れていく。それなのに、あの夜のことだけは、手放さずにいる。
浩二はその晩、眠れなかった。




