曲がった腰
春江の腰は、いつ曲がったのか分からないほど、少しずつ曲がった。
六十の頃の写真では、まだ背筋が伸びている。七十の頃の写真では、鍬を持つ肩が前に出ている。七十八の正月に孫たちと撮った写真では、春江の頭は、小学生の曾孫と同じ高さにあった。
六十年、腰を折って田に苗を挿し、腰を折って草を抜き、腰を折って虫をつまんだ。その形のまま、腰が戻らなくなった。
「お辞儀したまんまじゃな」
ふみがからかった。
「田んぼに、ずっとお辞儀しとったけん。田んぼのほうが、偉うなったんじゃ」
「実るほど頭を垂れる稲穂かな、じゃな」
「うちは実っとらん。垂れただけじゃ」
春江も負けずに言い返した。
できないことが、少しずつ増えていった。
台所の上の棚に、手が届かない。米袋が持ち上がらない。しゃがむことはできても、一人で立ち上がるのに、ひどく時間がかかる。畑へは、昔孫を乗せた古い乳母車を押していった。乳母車の籠に鍬と鎌と空き缶を入れ、杖のかわりに押して歩く。その姿を見て、村の子ども、といってもほとんどいないのだが、奈緒の幼い娘が、手を叩いて喜んだ。
ある夏の昼、春江は畑の畝のあいだで、立てなくなった。
草を抜いていて、気がつくと、腰が石のように固まっていた。手をついても、体が持ち上がらない。日差しが首の後ろを焼いた。助けを呼ぼうにも、隣の家までは声が届かない。ふみの耳では、届いても聞こえない。
春江は、畝のあいだに座りこんだまま、空を見た。雲が一つ、ゆっくりと流れていた。情けないのう、と思った。六十年、この畑で、こんなふうに座りこんだことは一度もなかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。垣根の向こうで、杖の音がした。
「……何をしとるんじゃ、そがいなとこで」
利平だった。青いシャツは、もう白に近いほど褪せていた。
「休憩しよるんです」
「休憩なら、日陰でせえ」
「日陰まで、行けんのです」
利平は、じっと春江を見下ろしていた。と、杖をついたまま、くるりと背を向けた。
春江は、行ってしまうのかと思った。利平の足では、自分を起こすことはできない。そう分かっていても、背中を向けられるのは、少し寂しかった。
十分ほどして、軽トラックの音がした。拓也が、畦道を走ってきた。その荷台に、利平が、杖を抱えてしがみついていた。
「春江さん。大丈夫ですか」
拓也は春江の脇に手を入れ、ゆっくりと抱え起こした。春江の体は、驚くほど軽かった。
「すまんのう、すまんのう」
「謝らんでええです」
「すまんのう」
荷台の利平が、杖で荷台の縁を、こつん、と叩いた。
「すまんのう、すまんのうと、うるさいのう。年寄りは、礼の言い方も忘れるんか」
春江は、利平をきっと睨んだ。そして、拓也に向き直って、頭を下げた。曲がった腰のせいで、頭は、膝より低くなった。
「……ありがとう」
拓也は照れたように頭をかいた。
「春江さんのトマトで、大きゅうなったんですけん。おあいこです」
それから、門の家には、毎日のように誰かが顔を出すようになった。
拓也は、田の見回りのついでに寄って、米袋を台所まで運んでいった。電球が切れれば、脚立に上って替えていった。奈緒は、娘を連れて、朝の虫取りに来た。上の棚の物を下ろし、下ろした物の場所を、紙に書いて冷蔵庫に貼っていった。移動販売の車が来る日には、回覧板を持ってくる隣組の女が、春江の分の豆腐を買っておいてくれた。
ふみは、何もしなかった。何もできなかった。ふみの腰も、春江と同じように曲がっていたからだ。そのかわり、毎日昼過ぎになると、自分の椅子を持って垣根のところへ来て、春江と並んで座った。
「今日は、誰が来たん」
「拓也くんと、奈緒ちゃんと、豆腐」
「豆腐は、人じゃない」
「豆腐を持ってきてくれた人じゃ」
二人は、それで顔を見合わせて笑い転げた。
春江は、助けてもらうたびに、何かを返そうとした。
拓也には、畑の茄子を持たせた。奈緒には、漬物の漬け方を教えた。隣組の女には、豆腐の代金に、胡瓜を三本つけた。返すものがないときは、落ち着かなかった。
夜、仏壇の前で、春江は進の写真に話しかけた。
「あんた。うちは、人に世話を焼くのは得意じゃったけど、焼かれるのは、下手じゃのう」
写真の進は、三十四のまま、物言わずに笑っていた。
「半分は虫に、半分は人に、いうてな。お母ちゃんが言いよった。うちは、ずっと、人に配る側じゃと思うとった。……配ったもんが、こがいにして、戻ってくるんじゃな」
線香の煙が、まっすぐに上がった。
春江は、曲がった腰をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がるのに、前よりずっと時間がかかった。




