灯りを数える
夕方、畑から戻る道で、春江は家々を屋号で数える癖があった。
上の家。橋のたもと。柿の木の家。井戸の家。嫁いできた日に覚えた順に、指を折る。昔は、どの家の前を通っても、誰かの声がした。赤ん坊の泣き声、嫁を呼ぶ姑の声、牛の鳴き声、ラジオの浪曲。
柿の木の家は、もう六年、誰も住んでいない。年寄り夫婦が相次いで亡くなり、大阪にいる息子は、法事のときにしか帰ってこない。庭の柿は、今年も枝が折れそうなほど実をつけていた。もぐ人がいない。熟れた実が落ちて、地面で潰れ、烏がそれをついばんでいた。
春江は、門の前で立ち止まった。
昔、この家のばあさんは、毎年、干し柿を軒いっぱいに吊るしていた。春江が嫁いだ最初の冬、垣根越しに、まだ渋の抜けない干し柿を一つくれた。渋くて口がしぼんだ春江を見て、ばあさんは歯のない口を大きく開けて笑った。
「門の家の嫁さんは、正直な顔をしとるのう」
その声を思い出しながら、春江は落ちた柿を一つ拾って、門柱の上に載せた。誰に供えたのか、自分でもよく分からないまま。
井戸の家のおばあさんは、去年の秋、町の施設に入った。上の家の息子一家は、広島に家を建てて、田を拓也に預けていった。拓也は、橋のたもとの家の孫で、一度は町で勤めたが、三十の手前で村に戻ってきた。今は、村の田の半分を一人で作っている。
「拓也くんが、おらんかったら、この村の田は、草ぼうぼうじゃ」
ふみが、垣根越しに言った。
「そうじゃな」
「うちの息子なんか、広島から、帰ってこい、帰ってこい言うてな。誰が、あがいな坂だらけの町へ行くもんか。うちが行ったら、仏さんの守りは、誰がするんな」
ふみは笑ったが、笑い声は、昔ほど長く続かなかった。
小学校は、とうに町の学校に統合された。秋祭りの子ども神輿は、担ぐ子が足りずに、軽トラックの荷台に載せて村を回るようになった。獅子舞は、腰の曲がった年寄りが、交代で舞った。有線放送が流すのは、今では訃報と、猪が出たという知らせばかりだった。
田植えの日に、一族が畦に並ぶこともなくなった。拓也の田植機が、一日で村じゅうの田を植えていく。便利になった。誰も腰を痛めない。けれど昼の畦で、泥だらけの手で握り飯を食べる者は、もういなかった。
日が落ちると、春江は縁側に出て、村の灯りを数えた。
子どもの頃、正月の座敷で、玄関の履物を数えた。嫁いでからは、田植えの日に集まった顔を数えた。今は、灯りを数えている。
一つ、二つ、三つ。
昔は、数えきれなかった。今は、指が余る。灯りのつかない窓の向こうに、春江は、その家の人の顔を一人ずつ思い出した。思い出せる顔のほうが、灯りの数より、ずっと多かった。
「……十一」
去年は、十三だった。
春江は数え終わると、自分の家の台所の灯りを、少しのあいだ消さずにおいた。誰かが、どこかで、この灯りを数えているかもしれないと思った。
それでも、村に入ってくる人がまったくいないわけではなかった。
ある春、大阪から若い夫婦が越してきた。柿の木の家を借りて、荒れた畑を耕しはじめた。夫の陽介は、もとは会社勤めだったという。妻の奈緒は、大きな腹を抱えていた。
村の年寄りたちは、遠巻きに見ていた。
「町のもんが、百姓なんか、続くもんか」
「一年もたんじゃろ」
どこかで聞いたような言葉だと、春江は思った。
ある朝、奈緒が、門の家の垣根の前に立った。手に、古い新聞の切り抜きを持っていた。紙は黄ばんで、角が丸くなっていた。畑の真ん中で、虫食いのキャベツを抱えた女が、照れくさそうに笑っていた。
「あの……この記事の方ですよね」
春江は、切り抜きを見て、目を丸くした。
「どこで、こんなもん」
「大学のとき、図書館で見つけたんです。薬を使わない野菜づくりを、三十年も前から一人でやってた人がいるって。ずっと、会ってみたかったんです」
奈緒は、深く頭を下げた。
「教えてください。虫と、どうやって相談するのか」
春江は、切り抜きに目を落としていた。やがて、垣根の木戸を開けた。
「明日の朝、日の出前に来んさい。空き缶を、一つ持って」
奈緒の顔が、ぱっと明るくなった。
その翌朝、奈緒は空き缶を二つ持ってきた。春江は奈緒に、葉の裏の見方を教えた。つぶしたらおえん、鶏の餌じゃけん。そう言いかけて、春江は、もう鶏を飼っていないことに気づいた。
「つぶしてもええよ。今は、鶏がおらんけん」
「いえ。うち、鶏、飼うつもりなんです」
奈緒は、空き缶の中の青虫を、大事そうにのぞきこんだ。
春江は頬をゆるめた。ゆるめながら、段々の畑で空き缶を持って笑っていた母の顔を、思い出していた。




