第六部 帰る場所 畑は私の場所
米づくりは、いつの頃からか、橋のたもとの家の孫の拓也に任せるようになった。
農機小屋の古い耕運機は、エンジンをかける人がいなくなって、埃をかぶった。あとから買ったトラクターも田植機も、小屋の奥で静かに並んでいる。米を任せた若い農家が、ときどき、それを借りに来た。
「また借りますで」
「ええよ。動くかのう」
「動かんかったら、叩きます」
機械が唸りをあげて、また動き出す。母は小屋の入口に立って、遠ざかっていく音に、いつまでも耳を傾けていた。
米を人に任せると決めた日、母は田の畦に長いこと立っていた。田を手放すというより、毎日通い続けた場所との付き合い方を変えるのだと、自分に言い聞かせているようだった。
それでも、野菜づくりだけはやめなかった。
朝、日が昇る頃、母は畑に出る。
土の匂い。虫の羽音。葉の裏の水滴。嫁いできた年と同じ景色が、そこにあった。母はしゃがみこんで、手で土を握り、確かめるようにほぐす。トマトの支柱をわずかに直し、茄子の葉を一枚かき分ける。
「今年は、ようできとるな」
誰に言うともなく、つぶやく。
畑の隅には、ラジオが置いてあった。源蔵が買ってきたものはとうに壊れ、健一が町で買ってきた小さなものに代わっていた。母はときどき鼻歌を口ずさんだ。調子は昔と変わらず、外れていた。
秋に帰省した浩二は、畑で働く母の背中を、遠くからしばらく眺めていた。
母は、楽しそうだった。足取りはゆっくりで、腰も曲がっている。それでも鍬を持つ手には迷いがなかった。浩二が近づくと、母は顔を上げた。
「帰ってきたんか」
「しんどうないか」
「しんどうない。見てみ、この茄子」
母は黒光りする茄子を一つ、手に載せた。
「ええ色じゃろ」
「うん」
垣根の向こうで、咳払いが聞こえた。振り向くと、白髪頭の老人が杖をついて立っていた。色の褪せた、青い作業シャツを着ている。利平だった。
「……まあまあの、茄子じゃな」
「欲しいんですか」
「欲しいとは言うとらん。ちょっと、通りかかっただけじゃ」
母は返事もせずに、袋に茄子を三本入れ、垣根越しに差し出した。利平はふん、と鼻を鳴らして受け取った。
「煮たら、炭になるんじゃろう」
「今でも、なります」
「……ほうか」
利平は茄子を抱え、杖をつきながら、ゆっくりと帰っていった。
「あの人、まだおるんじゃな」
浩二が言うと、母は目尻を下げた。
「おるよ。うちより元気じゃ。あの人はな、昔から、うちの畑の前をわざわざ通って帰るんよ。自分の家は、反対のほうじゃのに」
母はそう言って、また茄子の葉をかき分けた。浩二は、去っていく青い背中を見送った。
農業は、家族を食べさせるための仕事だった。けれど母にとっては、それだけではなかったのかもしれない。自分の手で野菜を育て、育ったものを誰かに手渡すこと。それは、年をとっても手放したくない、母の場所だったのかもしれない。




