土の匂い〜完結
翌朝、浩二が起きると、台所から焦げた匂いがしていた。
膳の上に、母の味噌汁と、端の黒くなった卵焼きが並んでいた。母は前掛けをして、得意そうに立っていた。ゆうべのことは、何も覚えていないようだった。
「早起きしたんじゃ」
「無理せんでええのに」
「無理しとらん。卵を焼いただけじゃ」
母は箸を取ると、卵焼きの焦げたところを器用に外して、自分の皿に載せた。そして真ん中の黄色いところだけを、浩二の皿に移した。
「焦げとるとこは、母ちゃんが食べる」
浩二は何も言えなくなった。
昔から、母はそうしていたのだ。焦げた飯も、焦げた卵焼きも、黒いところはいつも母の茶碗にあった。毎朝そこにあったのに、五十年以上、浩二は気づかなかった。母は今、きのうのことも、きょうが何曜日かも、ときどき分からなくなる。それなのに、焦げたところを自分の皿に取る手だけは、少しも迷わなかった。
「うまいか」
「……しょっぱい」
「うまいんじゃろ」
「うまい」
母は満足そうに鼻を鳴らした。
朝食のあと、「お天道さんが高うならんうちに、葱を見とかにゃ」と母が言うので、浩二は母と一緒に畑に出た。
朝の空気はひんやりとしていた。土の匂いが、足元から立ちのぼってくる。母はしゃがみこんで、葱の根元を指でほぐし、土の塊を手のひらで砕いた。浩二はその隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
母の手は、昔よりずっと小さくなっていた。それでも土に触れる指は、迷いなく動いた。土の中から細い根が現れ、朝の光を受けて白く光った。
遠くで軽トラックが一台、砂利を踏んで走っていった。母は顔を上げなかった。
浩二は、母が自分に何をしてくれたかを数えようとして、途中でやめた。数えられるようなことばかりではなかった。
土の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。
「母さん」
「うん? こうちゃん」
母が顔を上げた。ちゃんと、浩二の名前を呼んだ。皺だらけの顔が、朝の光の中で柔らかくほどけた。
「母さん、楽しい人生じゃった?」
風が畑を渡った。葱の葉が、さわさわと揺れた。
母は浩二の顔を見た。少し目を細めた。そして、ゆっくりと遠くへ目を向けた。田の向こうの松林の上に、五重塔の屋根が小さく見えていた。嫁いできた日、車の窓から初めて見た塔だった。
母は膝の上の土を、ゆっくりと払った。
浩二は答えを待った。待ちながら、急がなくていいのだと思った。
「そりゃあ、いろいろあったよ」
母は少し首をかしげた。
「じゃけどな」
葱の葉についた泥を、指先で落とした。
「楽しかったよ」
浩二は、相槌さえ打てなかった。母の答えは思っていたよりずっと短くて、聞き返せば壊れてしまいそうだった。
母はしばし、畑の向こうの田を眺めていた。刈り株の並ぶ田の、まっすぐな畦。誰もいない畦に、朝の光が差していた。
「もうすぐ、お父さんが田から上がってくるけん」
母は、ごく当たり前のことのように言った。
「そしたら、ご飯にしようか」
浩二は、母の見ている畦のほうを、一緒に見た。
「うん。そうしよう」
母はうなずいて、また葱の根元に指を入れた。
畑の端で、雀が二羽、乾いた土をついばんでいた。
結び 青シャツの話
わしの話は、ここまでじゃ。
浩二さんが、あの朝の畑のことを話してくれたのは、その年の暮れじゃった。うちの縁側で、わしが聞いたんじゃない。あの子のほうから話していきよった。母さんに聞いたら、楽しかったと言うた、と。それから、お父さんが田から上がってくるけん、ご飯にしよう、と言うた、と。それだけ言うて、あの子は黙って茶を飲んだ。わしも、相伴させてもろうた。
わしの母親も、後家じゃった。親父は南の島から帰らなんだ。わしが十二のときじゃ。
母親は村で、後家、後家と呼ばれて、わしはそれを聞きながら大きゅうなった。母親が井戸端で笑われた日、わしは何もできなんだ。何もできなんだ子どもは、そのうち、自分が人を笑う側に回ることを覚える。情けないことじゃが、そういうもんじゃ。
門の家の嫁さんが後家になったとき、わしは畦で、後家さんが耕運機とは世も末じゃ、と言うた。運動会では、後家が出しゃばるな、と言うた。言うたびに、あの人は、見とってください、と言うて、ほんまに見せた。まっすぐ田を耕し、父親らを抜き去り、息子を東京へやった。
わしの母親が言い返せなんだことを、あの人は全部、言い返した。
わしは、あの人に優しい言葉を、一つもかけられなんだ。悪口のほかに、話しかける言葉を知らなんだ。健一さんが大学に受かった日、一升瓶を一本、門の家の前に置いてきた。首に巻いた紙に、おめでとう、とだけ書いた。名前は書かなんだ。あれが、わしがあの人に書いた、たった一つの手紙じゃ。
通夜の晩には、門の外に立っとった。小学校の石段へは、まっさきに走った。火曜と金曜の夕方、あの人の軽トラが、砂煙を上げてあの道を走っていくのを、わしは何年も、田の中から見とったけん。
台所で泣いとった夜のことは、わしは知らん。知らんことは、知らんと言うておく。ただ、うちの窓から、門の家の台所の灯りはよう見えた。夜更けまで灯っとる晩が、何年も、何年もあった。わしはその灯りが消えるまで、なんとなく、寝られなんだ。
*
近ごろ、あの人は、ときどき昔へ帰る。
この秋、畑の前を通ったら、あの人が鍬にもたれて、わしを見た。ほいで、六十年前と同じ顔で言うた。
「利平さん。また、他人の苗に文句を言いに来たんですか」
田には、苗なんぞ一本もありゃせん。刈り株が並んどるだけじゃ。じゃが、あの人の目には、植えたばかりの曲がった苗の列が見えとったんじゃろう。
わしは、二十五の青シャツに戻って、言うてやった。
「曲がっとるのう。山のもんは、田んぼが下手じゃ」
あの人は、にやりと笑うた。
「見とってください」
わしは、杖を握ったまま、しばらく動けなんだ。あの人が忘れていくもんの中に、わしの悪口が入っとらなんだことが、情けのうて、うれしゅうて、ならなんだ。
*
正月の前の晩、門の家の前を通った。
刈り株の並ぶ田を、夕日が一本ずつ赤うしていった。水路にはまだ光が残り、松林の上に、塔の屋根が黒う見えた。
家の土間から湯気が流れ、誰かが鍋の蓋を落とす音がした。健一さんが皿を運び、浩二さんが味噌汁の味を見て、和也さんが庭で何か大きな声で言い返しとる。三人とも、とうに頭に白いものが混じっとる。
縁側の椅子に、春江さんが座っとった。昔は、ひとりでこの家じゅうを走り回っとった人じゃ。今は、呼ばれても、すぐには立たん。誰が呼んどるのか、分からん日もあるらしい。
「母さん、ご飯、作ろうか」
台所から、誰かがそう言うた。
春江さんは少し驚いた顔をして、それから笑うた。わしは垣根の陰で、それを聞いた。あの人が六十年、家族に言い続けてきた言葉を、今度は息子らが、あの人に言うとった。
風が庭の土を撫でて、かすかに匂いが立った。進さんが鍬を立てかけとった柱には、今は和也さんの長靴が並んどる。春江さんは椅子の肘に手をついて、一歩ずつ、土間へ降りていった。
「母さん、こっちへおいで」
あの人に、誰の声に聞こえたんかは、わしには分からん。息子の声か、亭主の声か。あるいは、山の家の、母親の声じゃったかもしれん。
春江さんは、振り向かずに答えた。
「今、行くよ」
*
わしの青いシャツは、もう襟も袖も白う褪せた。母親が藍で染めてくれたのを、母親が死んでからは自分で同じように染め直して、七十年あまり着てきた。春江さんが子どもの頃、母親に縫うてもろうた浴衣も、藍じゃったそうな。白い朝顔の柄じゃったと、あとで正一さんから聞いた。
あの人に、楽しい人生じゃったかと、わしは聞いたことがない。聞く資格もない。
じゃが、浩二さんが聞いてくれた。あの人は、楽しかったと答えた。
それで、ええ。わしの冥土の土産には、それで十分じゃ。
春になったら、わしはまた、あの人の畑の前を通って帰る。苗を見て、曲がっとる、と言うてやる。あの人が覚えとっても、覚えとらんでも、わしは言う。
あの人はきっと、見とってください、と言う。




