日曜の電話
三人の息子は、それぞれの道を歩いていた。
健一は大学を出て県の職員になり、農家を回って土や作付けの相談に乗る仕事に就いた。家から車で四十分の町に所帯を持った。浩二は東京で働いていた。和也は大阪で消防士になった。子どもの頃から、足だけは誰よりも速かった。
三人が同じ食卓に揃うことは、年に数えるほどになった。それなのに、母への電話だけは、三人とも日曜の夜にかけてきた。ほとんど、同じ時刻に。
「この間は、健一ちゃんの次に、和也ちゃんがかけてきてな」
母は垣根越しに、ふみに自慢した。
「順番が、決まっとるみたいじゃ」
「決まっとらん。あんたの息子らが、示し合わせとるんじゃろ」
「そんなこと、あるかいな」
実際、三人は示し合わせていた。ただし誰も、そのことを母には言わなかった。母もまた、日曜は電話を待っている、と口にしたことは一度もなかった。
示し合わせなくても三人が揃う日が、年に二度だけあった。田植えと、稲刈りの日である。
一族はその日、朝から総出になる。年寄りも若い者も、嫁も子どもも、鎌を持ち、苗を抱えて畦に並ぶ。三人の息子も、仕事を休んで帰ってきた。
「兄貴、腰、大丈夫か」
「聞くな。聞かれると痛うなる」
東京暮らしの浩二は、昼前にはもう動けなくなった。和也は鎌で自分の長靴を切りかけて悲鳴をあげた。その横で母だけが、変わらない速さで稲を刈り進めていく。
健一は一言もしゃべらず、黙々と刈り続けていた。昼には、健一の後ろに稲束の山ができていた。
「兄貴、人間か」
和也が笑いながら言った。健一は振り返らずに、鎌を動かした。
「……黙って、刈れ」
「あの人、それしか言わんな」
「あんたら、口を動かす暇があったら、手を動かしんさい」
昼、畦に座って握り飯を食べるとき、三人は同じ顔で、ぐったりと空を見上げた。母が三人の湯呑みに、順番に茶を注いだ。
「来年も、来んさいよ」
「……来る」
三人は声を揃えた。
母の暮らしも、少しずつ変わっていった。
源蔵は、浩二が就職した年の冬に、眠るように亡くなった。イネはそれから五年、寝たり起きたりを繰り返した。最後の二年は、母が下の世話までした。
亡くなる少し前、イネは枕元の母に言った。
「あんたの飯は、最後まで、ようけ焦げとったのう」
母が何と答えていいか分からずにいると、イネは目を閉じたまま続けた。
「焦げとるとこを、あんたは、いつも自分で食べとった。知っとったよ」
それが、姑から聞いた最後の、まとまった言葉だった。
イネが息を引き取った朝、春江は親戚の女たちに混じって、盥の湯で姑の体を拭いた。湯は、水に湯を足してぬるめた逆さ水だった。骨ばった肩、曲がった背中、ひびだらけの踵。四十年近く、この家の朝を仕切ってきた体だった。
手の甲を拭いているとき、春江は、姑の左の人差し指の先に、古い火傷の痕があるのに気づいた。かまどの焚きつけで、昔、焼いたものだろう。初めて台所に立った朝、焚きつけの手本を見せてくれた、その指だった。
春江はその指を、いちばん長く、丁寧に拭いた。
気がつけば、広い家に、母はひとりで暮らしていた。襖を外せば親戚が何十人も眠れる家は、ひとりには広すぎた。朝起きても、早く起きんさいと呼ぶ相手はいない。弁当を詰めることも、洗濯物の山もなくなった。台所の水切り籠には、茶碗が一つだけ伏せてあった。
息子たちの布団を片づけたあと、押し入れの奥に、風の通る隙間ができた。母はそこへ古い箱を押し込み、また取り出した。何を置いても、空いた場所の形は変わらなかった。
掃除はますます追いつかなくなり、廊下の隅には埃がうっすらと積もった。
「掃除は、後でええ。埃は、家の歴史じゃ」
母は笑って言った。その埃を、垣根越しに利平が杖で指した。
「春江さん、あんたの家は、相変わらずごみ屋敷じゃのう」
「利平さんこそ、まだ生きとってんかな」
二人は顔を見合わせて、にやりとした。四十年、同じことを言い合ってきた顔だった。
母は畑に出る時間が少し長くなった。ラジオの音が少し大きくなった。ふみと垣根越しに話す時間も増えた。
「あんた、近ごろ、よう笑うようになったな」
「そうかね」
「前より、声が大きいで」
「年のせいじゃろ」
二人は声を合わせて笑った。それぞれが、それぞれの年を重ねていた。
浩二が四十に手の届く頃、源蔵の十七回忌の席で、芳枝伯母が笑いながら言った。
「浩二ちゃん。あんた、お父さんのお葬式のとき、和也ちゃんと走り回っとったんよ」
「葬式で?」
「そうよ。みんな泣いとるのに、二人だけ元気でなあ。うちが納屋の裏まで追いかけたんじゃ」
浩二も最初は一緒になって笑った。けれど、ふと真顔になって、聞いた。
「そのとき、母は」
芳枝は湯呑みを置いた。
「春江さんはな、あんたらを見て、何とも言えん顔をしとった。叱りもせんかった。まだ分からん子らじゃけえな、言うて」
浩二には、父の声も顔も、確かな記憶としては残っていない。和也も同じだった。父を覚えている健一が昔の話をすると、二人はいつも少し羨ましそうに聞いた。
その晩、浩二は東京から母に電話をかけた。葬式の話をしようと思っていたのに、口から出たのは、いつも母に聞かれる言葉だった。
「ちゃんと、食べとる?」
電話の向こうで、母が噴き出した。
「それは、こっちの台詞じゃが」




