売り切れ
春江の一畝は、年ごとに二畝になり、三畝になり、やがて畑の半分になった。
源蔵は、もう文句を言わなかった。言わないかわりに、ときどき朝の虫取りに、自分の空き缶を持って加わった。年寄りの目は、葉の裏の虫を見つけるのが遅かった。そのかわり、蟻を勘定に入れることもなかった。
評判は、ゆっくりと広がった。
最初は、朝市で葱をつけてやった町の女だった。
「あんたとこの野菜な、うちの子が、食うたんよ」
女は、知り合いを三人連れて、春江の台の前に立った。
「野菜いうたら、口にも入れん子じゃったのに。トマトを、丸かじりしたんよ。もっとないんか、言うて」
それから、その三人が、また三人を連れてきた。
十年もたつと、門の家の野菜は、朝市の名物になっていた。
町の人は、春江の台を「虫食いの台」と呼んだ。開店の前から、籠を提げた若い母親たちが列を作る。九時には、台の上が空っぽになった。遅れてきた人が、空の籠を見て肩を落とすと、春江は家に取りおいた分を、次の土曜に届ける約束をした。帳面は、いつしか予約の名前でいっぱいになった。
隣の台の利平は、その列を、苦い顔で見ていた。
「虫の食い残しに、なんで行列ができるんじゃ」
「お下がりは、ありがたいもんじゃけん」
「わけが分からん」
利平の大根は、相変わらず穴一つなく、まっすぐで、真っ白だった。そして相変わらず、昼まで売れ残った。
ある年の秋、利平の台の大根に、小さな虫食いの穴が開いていた。春江が見ていると、利平はむっとした顔で言った。
「薬を、買い忘れただけじゃ」
その次の年も、利平は薬を買い忘れた。その次の年も、忘れた。利平が薬を思い出すことは、それきり二度となかった。
農協の指導員が、ある日、畑に来た。十年前に、科学の時代じゃと言った人だった。髪は薄くなり、腹が出ていた。
指導員は、畑の畝を、腕組みしたまま眺めていた。ややあって、言いにくそうに切り出した。
「奥さん。いったい、どうやっとるんですか」
春江は、草を抜く手を止めずに答えた。
「毎朝、虫と相談しよります」
指導員は破顔した。が、すぐに真面目な顔に戻った。
「……用水路にな、今年、蛍が出たんですわ。上の、橋のたもとのあたりに。何年ぶりかで」
春江は顔を上げた。
「見に行きました。三匹だけじゃったが」
指導員はそう言い残して、帽子をかぶり直し、帰っていった。
その晩、春江は子どもらが寝てから、懐中電灯を持たずに用水路まで歩いた。橋のたもとの暗がりに、小さな光が一つ、ゆっくりと明滅していた。春江は欄干に手をついて、光が消えるまで、そこに立っていた。
健一が県の職員の試験に受かった春、健一は春江の前に、古い帳面の束を置いた。
表紙はすり切れ、紙は黄ばんでいた。開くと、子どもの小さな字が、びっしりと並んでいた。日付、天気、畝の番号、虫の種類と数。小学四年の夏から、高校を出るまで、九年分あった。
「……まだ、つけとったんか」
「途中から、やめられんようになった」
健一は、帳面の一冊を開いて、指さした。
「ここ。母さんが葱を植えた年から、茄子の夜盗虫が、半分に減っとる。こっちは、灰をまいた畝。こっちは、まかなんだ畝」
春江には、数字のことはちんぷんかんぷんだった。けれど健一が、そのページを、宝物のように指でなぞっているのは分かった。
「わしは、県の仕事で、農家を回る。土の相談に乗る。……母さんの畑の帳面を、ほかの家の畑でも、つけてみたいんじゃ」
健一にしては、長い言葉だった。
春江は帳面を一冊手に取った。いちばん最初の一冊だった。一ページ目に、まだ平仮名の多い、角ばった字で、こう書いてあった。
「あおむし 十二ひき かずやは ありを まぜた」
春江は笑った。笑いながら、目の端を指でそっと押さえた。
そのうち、世の中のほうが変わりはじめた。
町のスーパーに、「無農薬」と書いた札の野菜が並ぶようになった。値段は、普通の野菜の倍だった。農協の朝市にも、「減農薬・有機コーナー」という看板が立った。看板の下のいちばんいい場所に、春江の台が移された。
地元の新聞の記者が、話を聞きに来た。
「門の家の春江さん。無農薬に取り組まれたきっかけは」
「取り組んだ、いうほどのもんじゃないです」
「でも、三十年近くも前から」
「最初は、薬代が惜しかったんです」
記者は困った顔をして、手帳から目を上げた。
「……それから、蛍が見たかったんです」
記事には、薬代の話は載らなかった。蛍の話だけが載った。畑の真ん中で、虫食いのキャベツを抱えて照れくさそうに笑う春江の写真が、県内版の隅に小さく出た。




