虫の食う菜
山の家の畑は、斜面を削って石を積んだ段々の畑だった。いちばん上の段まで登ると、谷の向こうの寺の屋根が、足の下に見えた。夏の朝、まだ露の乾かないうちに、母は春江を連れて畑に上がった。手には錆びた空き缶を一つずつ持っている。
「今日は、青虫の日じゃ」
菜っ葉の葉は、どれも穴だらけだった。春江が葉を一枚めくると、裏に、葉と同じ色をした太った虫が、のんびりと貼りついていた。
「おった」
「つまんで、缶に入れんさい。つぶしたらおえんよ。鶏の餌じゃけん」
春江はおそるおそる指を伸ばした。虫は柔らかくて、ひやりとして、少し動いた。春江は「きょうてえ」と悲鳴をあげて、手を引っ込めた。母は笑って、自分の缶の中に、ひょいひょいと三匹入れてみせた。
「きょうてえ、きょうてえ言うとったら、日が暮れる」
「きょうとうない。びっくりしただけじゃ」
「同じことじゃ」
春江は唇を噛んで、もう一度指を伸ばした。今度はつまめた。缶の底で、虫がころんと転がった。
一段終わるごとに、母は腰を伸ばして、谷を見た。春江も真似をして腰を伸ばした。伸ばすほどの腰でもないのに、と和江に笑われたが、春江は気にしなかった。
「お母ちゃん、町の畑は、虫がおらんのじゃと」
「誰が言うたん」
「茂兄ちゃん。町の人は、薬を撒くんじゃと」
「ほうか」
母は菜っ葉を一枚ちぎって、穴の空いたところを光に透かした。
「うちは、薬を買う金がないけんな」
ややあって、春江の顔を見て、目尻に皺を寄せた。
「ほいでもな。虫が食う菜は、うまい菜じゃ。虫は、まずいもんは食わん。虫のほうが、人間より舌が正直なんよ」
「ほんなら、虫に全部食わせたらええが」
「それは困る」
「なんで」
「半分は虫に、半分は人に。それで勘定が合うんじゃ」
春江には、その勘定がとんと呑みこめなかった。ただその晩、穴だらけの菜っ葉の味噌汁を飲んだとき、ほんの少し甘いような気がした。気のせいだったのかもしれない。それでも春江は、その味を覚えておこうと思った。缶の中の青虫は、庭の鶏が喜んで食べた。いちばん食い意地の張った赤茶の雌鶏に、春江は「茂」という名前をつけた。茂は怒ったが、雌鶏は返事をするように、こここ、と鳴いた。
秋になって、学校で作文の時間があった。題は「わたしの家のしごと」だった。春江は、青虫のことを書いた。葉っぱの裏にかくれていること。つまむと、ひやりとすること。鶏の茂が、いちばんたくさん食べること。お母ちゃんが、虫のほうが人間より舌が正直だと言ったこと。先生はその作文を、教室で読み上げた。
「……鶏の茂は、いつも、兄ちゃんの茂より、よく食べます」
教室がどっと沸いた。二つ上の組にいた茂の耳にも、その日のうちに届いた。茂は帰り道、ひとことも口をきかなかった。家に着く頃になって、ようやく言った。
「おちび。せめて、鶏の名前を変ええ」
「いやじゃ。もう、返事するけん」
茂は空を仰いだ。先生は作文の最後に、赤い字で一行書いてくれていた。
「虫のことを、よく見ていますね」
春江はその一行を、指で何度もなぞった。褒められたのは、字でも計算でもなかった。虫を見ていたことだった。それがなぜだか、いちばんうれしかった。教科書のあちこちには、まだ墨で塗りつぶされたところが残っていた。昼には、アメリカから来たという白い粉の乳が、アルミの椀に注がれた。鼻をつまんで飲む子もいたが、春江は、山の家の誰よりも先に飲み干した。どれだけ飲んでも、春江の背はなかなか伸びなかった。




