朝顔の浴衣
祭りの前の晩、春江は、隣の部屋に灯りがついているのに気づいた。襖の隙間からのぞくと、母が小さな浴衣を縫っていた。藍の地に、白い朝顔。針を進めては布を広げ、春江の背丈を思い浮かべるように確かめている。
「来年も着られるように、のう」
母は誰に言うでもなくつぶやいて、肩上げを少し深くとった。翌朝、浴衣は枕元に畳んで置かれていた。春江は飛び起きた。
「お母ちゃん、これ、うちの?」
「ほかに誰がおるん」
「お姉ちゃんらのかと思うた」
「お姉ちゃんらは、もう自分で着られる」
「うちも着られる」
「帯は」
「……お母ちゃんが締める」
母は笑って、春江の頭を撫でた。それは、春江が生まれて初めて袖を通す、姉たちの誰のお下がりでもない着物だった。その藍の布が、母が嫁入りのときに持ってきた浴衣をほどいたものだと春江が知ったのは、自分の嫁入り支度をする頃のことである。*祭りの日、和江とトミに手を引かれて隣村まで歩いた。提灯が並び、綿菓子が白くふくらみ、金魚すくいの水面に灯りが揺れていた。春江は一匹もすくえなかった。紙の枠は一度目で破れ、二度目は水につけた途端に溶けた。
「金魚のほうが、うちより泳ぐのが上手じゃ」
春江が真顔で言うと、屋台の男は笑って、赤い金魚を一匹、袋に入れてくれた。帰り道、夕立が来た。三人は神社の軒下に逃げ込み、金魚の袋を胸に抱えて、雨の上がるのを待った。やがて石段の下から、傘を三本抱えた人影が駆け上がってきた。母だった。髪は濡れ、もんぺの裾は泥で重くなっていた。
「風邪ひくじゃろうが、あんたら」
母は怒った声で言いながら、傘を一本ずつ渡した。渡し終えてから、自分の手が空っぽなのに気づいて、少し困った顔をした。
「お母ちゃん、傘は」
「ええんよ。ちょっと急いどったけん」
和江とトミが顔を見合わせ、母の両側から傘を寄せた。春江も自分の傘を差し出す。四人はひとつの傘の下に、ぎゅうぎゅうに詰まった。
「狭いのう」
「お母ちゃんが、大きいんじゃ」
「誰が大きいんじゃ」
雨の中に笑い声が広がった。袋の中で、金魚がゆらりと身をひるがえした。浴衣の裾は泥だらけになったが、母は叱らなかった。その晩、井戸端で裾を洗いながら、母は一度だけ、朝顔の柄を指でなぞった。その頃の春江は、愛されていることを疑ったことがなかった。叱られても、転んでも、最後には誰かが手を伸ばしてくれる。そういう家で育った。いつか自分がその家を出る日が来るなど、まだ想像したこともなかった。




