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土の匂い  作者: 畑野春樹
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第一部 末っ子の春 おちび

序 青シャツの話


わしの青いシャツは、襟から先に色が褪せた。春は鍬を担いで畦を歩き、夏は汗で背中を濡らし、秋は籾殻を袖にくっつけて歩いたからじゃろう。いつから青シャツと呼ばれるようになったか、もう覚えとらん。村では、人の名前より、着とる物や住んどる場所のほうが長生きすることがある。春江さんの家の前を通ると、朝はたいてい戸が開いとった。誰かを送り出したばかりの戸口に、濡れた布巾を片手に持って、もう片方の手で髪を撫でつけとる。声をかければ笑う。じゃが、笑いながら目だけが遠くへ行くことがあった。わしは、その目の先を何度も見失うた。先に言うておくが、わしはあの人に、ろくな口をきかなんだ。顔を合わせれば嫌味を言い、嫌味を返され、それで一日が済んだ。村の者は皆、わしのことを、門の家の嫁にかなわん男じゃと笑うとったろう。それはまったく、そのとおりじゃ。わしがあの人の暮らしを何もかも見たわけではない。生まれた山の家のことは、あの人の兄さんらから聞いた。子どもらの胸の内は、大きゅうなってから本人らに聞いた。人の記憶は、話すたびに少しずつ形を変える。じゃが、何度聞いても変わらん声や、手つきというものがある。わしは、そういうものを頼りに話してみようと思う。あの人が死んでから話すのでは遅い。じゃけん、今のうちに話しておく。わしの家は、門の家から田を三枚隔てた向こうにある。昼の十二時には、村の有線放送が、どこの家の誰が死んだ、どこの寄り合いが何時からじゃ、と流す。わしはそれを、六十年あまり聞いてきた。この村では、人が生まれたことも死んだことも、たいてい昼飯どきに知れる。


第一部 末っ子の春


一 おちび


まだ人の起きん朝、堰の板を抜く音がした。暗い畦を水が走り、田の底に残った昨夜の星を崩してゆく。山は霞んで、谷向こうの寺の屋根だけが淡く浮いていた。春江の足袋はすぐに濡れた。濡れたことにも気づかず、春江は母の背中を追った。春江は、県北の山あいの農家に、8番目の子として生まれた。桜の散りはじめる頃だった。産婆が取り上げると、泣き声が家じゅうに響き、畑にいた父は土のついた足のまま土間へ駆け戻った。赤ん坊をのぞきこもうとして、母にたしなめられた。


「その手で触ったらおえん」


「おお、そうじゃった」


父が井戸で手を洗って戻ったときには、赤ん坊は泣き疲れて眠っていた。


「春に生まれたけん、春江じゃ」


母が言うと、父は相好を崩した。「8人目で、まだ名前を考えるんか」


「8人目でも一人目でも、この子はこの子じゃ」


そうして春江という名がついた。けれど家の中で、その名が呼ばれることはほとんどなかった。


「おちび、そこをどけ」


「おちび、廊下を走るな」


「走っとらん、飛んどるんじゃ」


8人兄弟の末っ子は、家の中での序列はいちばん低い。そのかわり、甘やかされる権利だけは誰よりも高かった。長兄の正一は、立て付けの悪い戸を膝で押し、開けば自分の手柄のような顔をした。次姉の寿美は台所を仕切る、もうひとりの母だった。3番目の茂は何にでも理屈をつけ、4番目のキヨは繕い物の名人で、5番目の実は牛小屋にいるときだけ機嫌がよかった。6番目の和江と7番目のトミは、顔を見合わせるだけで笑い出す。その騒ぎの真ん中に、いつも春江がいた。春江の着物の袖には、前に着た姉の繕い跡があり、その下に、さらに前の姉の繕い跡があった。家の中はいつも、囲炉裏の煙と、牛小屋と、土間の漬物樽の匂いが混じり合っていた。梁は煤で黒く、雨の日には天井から、ときどき煤が一粒、汁の中に落ちてきた。誰も気にせず、そのまま飲んだ。便所は母屋の外にあった。夜中に行くときは、誰かを起こして、戸の外で待っていてもらわねばならない。起こされるのはたいてい茂で、茂は戸の外で、わざと狐の鳴き真似をした。春江が泣き出すと、翌朝、茂は母に叱られた。それでも次の晩、春江はまた茂を起こした。ほかの誰を起こしても、狐の声が聞こえる気がしたからである。


戦争が終わったのは、春江が7つの夏だった。それまでの夜、母は雨戸の隙間に新聞紙を詰めた。灯りが外へ漏れんようにするためだった。兄がラジオの音を絞ると、釜の底をしゃもじがこする音だけが残った。春江は、なぜ明かりを隠すのか聞きたかったが、母の指先が急いでいるのを見て、口をつぐんだ。終戦の知らせを聞いた夕方も、牛はいつもの刻限に鳴いた。父は牛小屋へ行き、母は薄い粥の鍋に水を足した。庭では赤とんぼが低く飛んでいた。兄の正一は縁側から動かず、遠くの道を見ていた。その道の先から、帰ってくるはずの誰かを待っているようでもあり、もう誰も来ないことを確かめているようでもあった。春江は兄の隣に座ったが、何を話せばいいのか、見当もつかなかった。正一が待っていたのは、母の末の弟だった。春江は顔を覚えていない。出征の朝、春江を高い高いしてくれたのだと、あとで聞いた。南の島で死んだという知らせが来たのは、翌年の春だった。紙切れ一枚と、石ころが一つ入っていたという。その日も母は、いつもの刻限に釜に火を入れた。ただ夜になって、牛小屋の暗がりで、牛の首に額をつけてじっとしている母を、春江は見た。牛は、母の髪を、ゆっくりと舐めていた。


「おかわり、ある?」


その晩、春江が聞くと、母は自分の茶碗を見ずに言った。


「あるよ。よう噛んで食べんさい」


母が自分の椀を伏せるところを、春江は一度だけ見たことがある。椀の底に、米粒が2つ貼りついていた。春江が指で取ろうとすると、母に手を押さえられた。


「あんたは、もう食べたじゃろ」


母の声は、いつもと同じだった。


「お母ちゃんの分は?」


「後で食べる」


後で食べる、というのは、大人が子どもに使う便利な言葉だった。春江はそのとき、本当に後で食べるのだと思った。


朝、母は誰よりも早く起き、かまどに火を入れて、8人分の弁当を詰めた。麦の多い飯の真ん中に、梅干しがひとつ。春江の弁当だけが小さかった。


「なんで、うちのだけ小さいん」


「小さいほうが、持ちやすいんじゃ」


「兄ちゃんのは大きい」


「兄ちゃんは大きいけん」


「うちも大きゅうなる」


「そりゃあ、食べたらな」


母は前掛けのポケットから手拭いを出して、春江の懐に押し込んだ。


「手拭いは」


「ある」


「嘘つけ。今、入れたんじゃ」


「……あったことにしたんじゃ」


母は笑って、春江の頭をぽんと叩いた。学校までは山道を1時間歩いた。先頭は茂、しんがりは和江で、春江は姉たちの間に挟まれた。遅れると茂が振り返る。


「おちび、はよせえ」


「遅れとらん。みんなが速いんじゃ」


「歩幅が違うんじゃ」


「兄ちゃんの足が長すぎるんじゃ」


茂は言い返そうとして、結局、歩く速さを落とした。春江は勝った顔で、その隣を歩いた。午後のおやつは干し芋だった。長兄の正一が、人数分に割って配る。茂が、自分の分と春江の分を見比べた。


「兄ちゃん、おちびのが大きい」


「気のせいじゃ」


「絶対、大きい」


正一は少し黙った。


「おちびは小さいけん、大きいのを食わんと追いつかんのじゃ」


「何に追いつくん」


「……大きさにじゃ」


「干し芋で、大きゅうなるん」


「なる」


正一が言い切ったので、春江は大きいほうの干し芋を両手で持ち、ありがたく食べた。茂は「兄ちゃんは嘘つきじゃ」と言ったが、正一は聞こえないふりをした。干し芋がどこから来たのか、春江は知らなかった。正一が、学校の帰りに隣村の家へ薪割りに通って、その駄賃にもらってきたものだと知ったのは、ずっと後のことである。


春江は、末っ子の作法をよく心得ていた。叱られたら、まず笑う。笑ってもだめなら謝る。謝ってもだめなら、母の後ろに隠れる。母の後ろに隠れたら、兄たちはたいてい負けた。ある日、茂が、二年かけて小遣いを貯めて譲ってもらった古自転車を庭に置き、「触ったらおえんぞ」と念を押した。


「触らん」


春江は胸を張って答えた。一時間後、春江は自転車にまたがっていた。サドルは高すぎて、足はペダルに届かない。けれど庭の坂を下れば、何とかなる気がした。兄が乗るところは何度も見ている。春江は地面を蹴った。自転車は動いた。風が顔に当たり、ハンドルの鈴が、ちりんと鳴った。春江は生まれて初めて、自分が風になったと思った。次の瞬間、門を抜けた自転車は畦道へ飛び出し、そのまま田に突っ込んだ。駆けつけた茂は、泥の中から顔を出した妹を見て、怒鳴るために大きく息を吸った。ところが春江は、目を輝かせて言った。「兄ちゃん、風になった」茂は怒鳴った。怒鳴ったはずだった。けれど声は途中から笑いに変わり、最後には畦に座り込んで腹を抱えた。兄姉が集まって、全員で自転車を引き上げ、全員で泥を拭き、全員で母に見つからないようにした。もちろん母には、最初から見つかっていた。夕飯のあと、茂と春江は囲炉裏端に並んで座らされ、こってりと油を絞られた。茂は自転車を出しっぱなしにしたことを、春江は乗るなと言われたのに乗ったことを。


「兄ちゃん、ごめんなさい」


春江が言うと、茂は顔をそむけた。


「……鈴は、無事じゃった」


それが茂の、精いっぱいの許し方だった。


夏になると、家は葉たばこの季節に入った。山の斜面に背丈ほどの葉が広がり、朝露に濡れた葉を摘むと、指に黄色い脂がついた。何度洗っても、匂いはなかなか落ちなかった。子どもたちは、摘んだ葉を縄に編み込む仕事を手伝った。


「おちび、それ、逆じゃ」


「逆でも、乾けば一緒じゃ」


「一緒じゃない。買い取りで等級を落とされる」


「葉っぱが、逆じゃったと言うて、しゃべるん?」


「しゃべらんでも、見る人がおるんじゃ」


茂が春江の編んだ縄をほどきはじめた。春江は頬をふくらませたが、兄が全部やり直してくれるわけではないと分かると、隣に座って編み直した。夜、乾燥小屋では火が焚かれた。母は火を絶やさぬよう、眠気と闘いながら薪を足した。春江がのぞくと、母は目を閉じたまま、薪を一本くべていた。


「お母ちゃん、寝とるん?」


「寝とらん。目を閉じとるだけじゃ」


「それを、寝とる言うんじゃ」


母は目を開けて、春江を見た。


「おちびは、口から先に生まれてきたんじゃな」


「兄ちゃんに似たんじゃ」


「それは困った」


小屋の中には、甘く焦げた葉の匂いと、薪のはぜる音が満ちていた。*その冬、春江はひどい熱を出した。医者は峠の向こうにしかおらず、雪で道がふさがっていた。母は一晩じゅう枕元を離れなかった。ぬるくなった手拭いを替え、手を握り、何度も「ここにおるよ」と言った。明け方、熱が下がって目を覚ますと、母は枕元で、針を持ったまま眠っていた。春江がその手に触れると、母ははっと目を開けた。


「熱、下がったか」


「うん」


母の顔がくしゃりと崩れた。泣きそうなのに、笑っていた。


「味噌汁、作ろうな。ええのを作ろうな」


その朝の味噌汁には、特別な日にしか入らない卵が落とされていた。その晩、父が夜明け前に峠の地蔵さんまで歩いていって、手を合わせて帰ってきたことは、誰も知らなかった。父は、そのことをおくびにも出さなかった。春が来て、母が峠を越えて町へ用足しに行ったとき、地蔵さんの足元に、父の編んだ草鞋が一足、雨に濡れて供えてあった。母はそれを見て、その場で少し笑い、それから少し泣いた。家に帰っても、父にはそれと告げなかった。春江はまだ、何も知らなかった。働くことの重さも、家を離れる寂しさも、母がどれほどのものを飲み込んで生きているのかも。家には兄や姉がいて、母がいて、明日もきっと誰かに叱られる。そう思っていた。

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