岡山を捨てるのか
出発の十日前、夕飯の席で、イネが湯呑みを置いた。茶が一滴、畳にこぼれた。誰も拭こうとしなかった。庭の水路で、水が石に当たる音がしていた。
イネはこの家の朝を、何十年も仕切ってきた人だった。灰をならし、田の水を案じ、盆に誰がどの座敷で寝るかを決めた。浩二が小さい頃、熱を出せば夜通し額に手を当ててくれた人だった。その人の声が、急に大きくなった。
「岡山を、捨てるんか」
イネの指が畳を打った。浩二は、餅を焼くとき自分の分を先に網の端へ寄せてくれた、その指を見つめていた。
母が箸を置いた。
「捨てるんじゃありません。この子は、勉強しに行くんです」
母の声は小さかった。
「この家の田は、どうする。墓は、誰が守る。親の意見と茄子の花は、千に一つも無駄がない、いうて昔から言うじゃろうが」
母は一度、庭へ目をやった。進が畦から戻るとき、いつも通った道だった。
「ここで育ったことは、どこへ行っても、なくなりません。行かせてやってください」
「嫁が、そう言わせとるんじゃろう」
母は返事をせず、こぼれた茶を布巾で押さえた。浩二は、その布巾を持つ母の手が少し震えているのを見た。
その夜、浩二は納屋の脇でイネを見つけた。イネは、もう誰も使わないほど丁寧に、藁縄を撚っていた。月の光が、指の節を白く照らしていた。
「ばあちゃん。わし、帰ってこんわけじゃない」
イネは顔を上げなかった。
「帰ってくる言うて、帰らん者を、何人見たと思うとる」
浩二には、返す言葉がなかった。
「あんたのお父ちゃんもな、役場へ勤めに出るとき、田のことは心配いらん、と言うた」
藁がぷつりと切れた。
「心配いらん言うた者から先に、おらんようになる」
イネは切れたところを、無言で結び直した。浩二はそのとき初めて、あの怒鳴り声の底にあるものを見た気がした。
翌朝、母はイネの前に茶を置いた。
「お義母さん。あの子を引き留めたら、あの子はここにおっても、ずっと外ばっかり見ることになります」
イネは茶碗を持ったまま、じっと動かなかった。
「わたしも、寂しいんです。でも、寂しいからいうて、あの子の道まで狭うしたくないんです」
イネは長い間をおいて、言った。
「あんたは……進に似たことを言う」
母は笑わなかった。湯気の向こうで、姑の目が赤くなっているのを見たからだった。
出発の前の晩、母は簞笥の底から風呂敷を出した。浩二が小学生の頃、遠足の弁当を包んだ布だった。角の一つが擦り切れ、縫い目の糸が浮いている。東京へ持たせるには古すぎると思い、畳んで戻しかけて、結局、荷物のいちばん下に敷いた。
駅のホームで、母は浩二の鞄の紐を結び直した。もう直すところはなかった。
「着いたら、知らせんさい」
「うん」
列車が動き出した。母は手を振らなかった。窓の中の息子を、ただ見つめていた。浩二が振り返ったとき、母の姿はもう小さくなっていて、線路際の草だけが風に伏せていた。
浩二は鞄を膝に抱いた。結び目を解こうとして、やめた。母が結んだまま、東京まで持っていこうと思った。




