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土の匂い  作者: 畑野春樹
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第五部 それぞれの道 これもご縁

健一は高校を出ると、岡山の大学の農学部に、一度で受かった。

合格の知らせを、健一は誰にも言わなかった。通知の封筒を、そっと仏壇の前に置いただけだった。それを見つけた母は、封筒を持ったまま、廊下に立ち尽くした。


「健一ちゃん、受かったんか」


「……うん」


「そうか。そうか」


健一の返事は、それきりだった。それでも母には十分だった。


その晩、母は赤飯を炊いた。水加減を間違えて、赤飯は粥のようになった。健一は黙々と、おかわりをした。


翌日の昼、電柱の上の有線放送が、門の家の健一さんが岡山の大学に合格されました、おめでとうございます、と流した。誰が知らせたのかは、とうとう分からずじまいだった。母は台所で、鍋を必要もないのに叩いて、聞こえないふりをしていた。健一は耳まで赤くなって、納屋に隠れた。その日の夕方までに、近所から卵が十二個と、大根が三本と、一升瓶が一本届いた。一升瓶の首には紙が巻いてあり、鉛筆で、おめでとう、とだけ書いてあった。名前はなかった。寄り合いの回覧板で見慣れた、角張った字だった。母はその紙を、人知れず仏壇の引き出しにしまった。


母は仏壇の前に封筒を置き直して、手を合わせた。


「あんた、見とるか」


返事はない。線香の煙がまっすぐ上がった。母は進に自慢したかった。生きていたら、誰よりも大きな声で喜んだだろうに。そう思うと、うれしい日に限って寂しさが濃くなった。


村では、門の家が少し違う目で見られるようになった。父親がおらんのに、ようあの大学へ入れたな。下の子らも大学まで行かすんか。褒める声には、ときどき驚きが混じった。母はそれを聞くたびに、うれしさと悔しさの両方を覚えた。父親がいないことは、子どもが勉強できない理由にはならない。けれど、誰もがそう思う時代ではなかった。


二年後、浩二は東京の大学を目指した。

夜更けまで机に向かう浩二の横に、母は温い茶を置いた。数学の式は分からない。大学の名前も聞き慣れない。けれど、鉛筆を動かし続ける背中を見れば、何かをつかもうとしていることは分かった。


「無理せんでええよ」


「あと、ちょっとだけ」


進と同じ言い方だった。母はそれ以上、何も言えなかった。

受験の前の晩、母は夕飯にとんかつを出した。


「カツじゃ。勝つように、な」


翌朝はカツ丼だった。昼の弁当にはカツサンドが入っていた。


「母ちゃん、もう、カツはええ」


「何を言いよるん。あと三日あるじゃろ」


三日間、母は本気で、毎食カツを出した。浩二は試験会場の席で鉛筆を握りながら、胃のあたりに重いものを感じていた。縁起は担いだ。あとは胃袋との勝負だった。膝の上には、母が前の晩に縫ってくれたお守り袋があった。


合格発表の日、家の電話が鳴った。電話の向こうの声は短く、静かだった。


第一志望は、不合格だった。受かったのは、すべり止めに受けた東京の私立だけだった。


浩二は受話器を置いたまま、身じろぎもできなかった。台所で、母が野菜を切る手を止めていた。何も聞かずに浩二の顔を見て、ただ、うなずいた。


部屋にこもった浩二は、布団の上で天井を見ていた。悔しさと情けなさと、もう一つ、胸の底に沈んでいる不安があった。お金のことだった。東京の私立は、国立の何倍もかかる。母がひとりでどれだけ働いているのか、浩二は知っている。


障子がそっと開いた。


母が、湯気の立つ蒸かし芋を盆に載せて入ってきた。何も言わずに浩二の横に盆を置き、そのまま座っていた。


「……母ちゃん」


「うん」


「ごめん」


「こうちゃん、何を謝るん」


浩二は答えられなかった。芋の湯気が、二人のあいだにゆらゆらと立ちのぼった。


母が、ふいに言った。


「これも、ご縁よ」


浩二は顔を上げた。


「縁があったんじゃ、別のところと。それだけじゃ」


「でも、お金が」


「大丈夫」


母はきっぱりと言った。


「大丈夫」


それで、しまいだった。長い説教も、励ましの言葉もなかった。母は浩二の背中を、ごわごわした手で、ぽんぽんと二回叩いた。

浩二は芋を一つ取って、割った。熱くて甘かった。涙がぽろりと落ちた。母は見ないふりをして、窓の外の畑を見ていた。

その春から、母は朝市に出る日を一日増やした。田の一枚を、親戚に貸した。浩二がそれを知ったのは、ずっと後のことである。


翌朝、垣根の向こうから、利平の声がした。


「聞いたぞ。東京の大学、落ちたそうじゃのう」


母は洗濯物を干す手を止めなかった。


「ご縁が、なかっただけです」


「後家の子が東京なんぞ、身の程知らずじゃ」


母は洗濯ばさみを、ぱちんと止めた。おもむろに振り返って、にっこりと笑顔を作った。


「落ちる人は、受けた人だけじゃけん」


利平は口を開いて、閉じた。言い返す言葉が出てこなかった。

「受けもせん人より、よっぽどええ」


母はそう言って、空になった洗濯籠を抱えて家に入った。利平は垣根の向こうで、案山子のように突っ立っていた。ややあって、誰もいない庭に向かって、小さな声で何か言った。何と言ったのかは、聞いていた者がいないので、分からない。

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