母の雑煮
年の暮れの台所は、湯気と匂いでいっぱいになる。
母は朝から、おせちの支度をしていた。黒豆を煮て、昆布巻きを結ぶ。割烹着の袖をまくって鍋の前に立つ背中は、いつもより忙しそうで、けれど楽しそうだった。
暮れの煤払いは、母が一年でいちばん苦手な仕事だった。障子を張り替えれば糊をつけすぎて障子が桟に貼りつき、窓を拭けば雑巾を絞り忘れて廊下が水びたしになった。仏壇を掃除すれば、香炉の灰を畳にぶちまけた。
「春江、もう、ええけん」
イネが有無を言わさず雑巾を取り上げた。母はしょんぼりと台所へ退散した。
「おせちは、得意じゃ」
「得意じゃないじゃろ」
三人の息子が声を揃えた。母は言い返せなかった。
餅つきの日は、かまどで餅米を蒸した。蒸籠から立ちのぼる湯気に、甘い匂いが混じる。子どもたちは台所の入口に並んで、つま先立ちをした。
「まだ食べたらおえん」
「ひと口だけ」
「ひと口だけじゃ」
母は蒸したての餅米を小さく握って、三人の手のひらに載せた。熱くて持てなくて、手のひらの上でころころ転がした。ふうふう吹いて口に入れると、ほのかに甘かった。
石臼に餅米が移される。源蔵が杵を振り上げ、母が手を濡らして返す。ぺったん。ぺったん。
調子に乗った源蔵が杵を高く振り上げすぎて、勢い余って、くるりと一回りした。
「じいちゃん」
子どもらが叫んだ。源蔵は杵を抱えたまま、何事もなかったような顔で臼の前に立ち直った。
「……今のは、わざとじゃ」
「うそじゃ」
和也が即座に言った。母は顔をそむけて肩を震わせていた。臼の中の餅だけが、何も知らずに、ぺったんと鳴った。
大晦日の昼、源蔵は納屋の前に筵を敷いて、注連縄をなった。今年の新藁を水で湿らせ、手のひらで撚り合わせていく。子どもたちが手伝おうとすると、源蔵は一本ずつ藁を持たせた。
「左へ撚るんじゃ。神さんのは、左じゃ」
「なんで左なん」
「昔から左じゃ」
「昔って、いつ」
「……わしの爺さんの、そのまた爺さんの頃からじゃ」
和也が撚った藁は、右に撚れていた。源蔵はそれを何食わぬ顔でほどき、自分の縄の芯に、こっそり巻き込んだ。
元日の夜明け前、母は井戸から若水を汲んだ。年の最初の水で、仏壇と、年神さんを祀った神棚に供える茶を沸かす。浩二が寝ぼけて起きていくと、暗い井戸端で、母が手桶を傾けながら、何かを小さくつぶやいていた。今年も、子どもらが無事でありますように。そう聞こえた気がしたが、浩二の聞き違いだったかもしれない。
元日の朝、膳に母の雑煮が並んだ。
いりこの出汁の、素朴な汁。鰤と、ほうれん草と、丸餅。汁の色は淡く、鰤の脂がうっすらと浮いていた。
源蔵がひと口すすって、うなずいた。
「ええ味じゃ」
イネも静かに汁を啜った。子どもたちは餅を伸ばしながら、はふはふと食べた。母は自分の椀にはあまり手をつけず、子どもたちの顔を見ていた。
正直に言えば、母の雑煮は毎年、味が違った。しょっぱい年もあれば、薄すぎて、ほとんどお湯のような年もあった。そして鰤の骨が、毎年必ず一本、誰かの椀の底に沈んでいた。
「骨、入っとる」
和也が口から骨をつまみ出した。
「出汁のうちじゃ」
母は真顔で言った。源蔵が咳き込んだふりをして、笑いをごまかした。
大人になった浩二は、東京の小さな部屋で、何度もあの雑煮を作ろうとした。鰤を入れ、ほうれん草を入れ、丸餅を焼かずに煮た。けれど、どうしてもあの味にならなかった。
毎年違っていた味を、ひとつの味に近づけられるはずがない。そのことに浩二が気づくのは、もう少し先のことである。




