台所の灯り
浩二は、その夜のことを今でもはっきり覚えている。
小学校に上がる前だったのか、上がってしばらくした頃だったのか、そこは自分でもはっきりしない。ただ、夜中にふと目が覚めた。
隣の布団は、空だった。
廊下の先の台所に、明かりがついていた。寝ぼけた足で、浩二はそっと廊下を歩いた。戸の隙間から、のぞいた。
母が、背中を向けて座っていた。
台所の古い椅子に、小さく丸まって。肩がわずかに揺れている。声は聞こえなかった。手のひらで、顔を覆っているのが見えた。
浩二は息を止めた。
声をかけようとした。けれど喉が動かなかった。何があったのか分からない。分からないまま、母の背中は、どこか手の届かない遠い場所にあるようだった。
足が勝手に動いた。音を立てないように後ずさりして、布団に戻った。目を閉じて、眠ったふりをした。
翌朝、台所には味噌汁の匂いがしていた。
「おはよう。よう寝られたか」
母がいつもの顔で微笑んだ。いつもの声だった。浩二は「うん」と答えた。それ以上は、何も言えなかった。
母はいつものように飯を炊き、鍬を持って畑へ出た。その日の味噌汁は、どことなく、いつもよりしょっぱかった。浩二は何も問わずに、一滴残らず飲んだ。
何があったのか、浩二は今も知らない。聞いたこともない。聞いてはいけないような気がして、聞かないまま年月が過ぎた。
台所の古い椅子は、今も同じ場所にある。




