手を挙げる
三年生の秋、担任の先生が言った。
「今日は、お父さんの仕事について作文を書いてもらいます。その前に、お父さんのいない人は、手を挙げてください。別の題をあげますけん」
教室が一瞬、静かになった。
浩二は、机の上の自分の手を見つめた。挙げたくなかった。けれど先生は教室を見回している。周りの子の目が、自分に集まっているような気がした。
手が、ゆっくりと上がった。
「はい。ありがとう」
先生は、何でもないことのようにうなずいて、次の話に移った。
浩二は手を下ろした。顔が熱かった。目の奥がぎゅっと痛くなった。机に顔を伏せた。声は出さなかった。出さないようにした。涙だけが、ノートの上に、ぽたぽたと落ちた。恥ずかしさと悲しさが、胸の中でひとつの固まりになっていた。
帰り道、校庭の隅で、運動会の練習をしている上級生が父親と並んで走っていた。父親が息子の背中をぽんと叩いて、白い歯を見せた。浩二はその光景から目をそらして、足を速めた。
家に着くと、母が畑から戻ったところだった。
「おかえり。……どうしたん、目が赤いが」
「砂が入った」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。土のついた手で、浩二の頭にそっと触れた。ごわごわした、温かい手だった。土の匂いがした。
その夜、布団の中で天井を見ていると、隣で健一がぼそりと言った。
「寂しいときは、寂しい言うてええんど」
浩二は何も答えなかった。けれど、布団の中で小さくうなずいた。
母が苦労していることは知っている。それでも、寂しいものは寂しい。その二つは同じ胸の中に一緒にあっていいのだと、そのときの浩二は、まだうまく言葉にできなかった。
その秋の運動会に、親子リレーがあった。
父親のいる子は、父親と走る。浩二はプログラムを見つめたまま、動けなかった。すると母が、前掛けを外して運動場に出てきた。
「母ちゃんが、走る」
「無理じゃ」
「無理じゃない。畑で、毎日走っとる」
母はスカートの裾をたくし上げて、スタートラインに立った。父親たちの中に、ひとりだけ母がいた。見物席がざわついた。
「後家が、出しゃばるな」
見物席の端から、野次が飛んだ。青いシャツの男だった。母は振り返って、にやりとした。
「見とってください」
号砲が鳴った。母は前のめりになって、一直線に走り出した。田畑で鍛えた足は、驚くほど速かった。父親たちを一人、また一人と抜いていく。見物席がどっと沸いた。最後の直線で、母は足をもつれさせて転びかけた。地面に手をつき、そのまま走り抜けた。
「母ちゃんが、勝った」
和也が叫んだ。母は砂のついた手で、浩二の頭を撫でた。
「どうじゃ。母ちゃんの足」
「……速すぎ」
浩二は恥ずかしくて、うれしくて、顔を上げられなかった。
見物席の利平は、口を開けたまま、自分のシャツの襟を握りしめていた。隣にいた男が、あとで村じゅうに言いふらした。野次を飛ばしたあの男が、母が転びかけたとき、誰より先に腰を浮かせていた、と。
その週の授業参観で、一年生の和也の作文が読み上げられた。
「ぼくの母ちゃんは、ごはんがよくこげます。そうじもへたです。けれど、足はものすごくはやいです。ぼくは、母ちゃんに、にています」
教室がどっと沸いた。後ろの壁際に立っていた母は、顔を真っ赤にしてうつむいた。かと思うと、肩を震わせて笑い出した。
「……こら、かずちゃん」
「はい、お母さん」
和也は教室の真ん中で、元気よく手を挙げた。先生が笑いをこらえながら言った。
「ええ、よう、お母さんのことを見とりますね」
浩二は廊下の窓から、その光景を見ていた。弟のあの明るさは、いったいどこから来るのだろう。母が笑っている。教室じゅうが笑っている。胸の奥の重たいものが、心なしか、軽くなった気がした。




