虫の食う野菜
その頃、村の田畑には、毎年決まった時期に薬が撒かれた。
農協から散布の日取りを書いた紙が回ってくる。その日になると、男たちは手拭いで口を覆い、背中に噴霧器を負って畦に出る。白い霧が田の上を流れ、撒いた田の畦には、小さな赤い旗が立てられた。旗の立っている田には、三日、子どもを近づけてはいけないことになっていた。
薬を撒けば、虫は一匹もいなくなった。稲はまっすぐに育ち、胡瓜は曲がらず、キャベツの葉には穴一つなかった。科学の時代じゃ、と農協の指導員は胸を張った。春江も、皆と同じように撒いていた。役場の補助で安く買えると聞けば、迷う理由はなかった。
山の母が死んだ翌年の初夏だった。
畑の茄子に薬を撒いた次の日、和也が熱を出した。夕方から吐き続け、顔が紙のように白くなった。春江は和也を背負って、隣村の診療所まで走った。
医者は、和也の口の匂いを嗅いで、眉をひそめた。
「何か、畑のもんを食うたか」
春江は、はっとした。昼間、和也が畑の隅で、もいだばかりのトマトを服で拭いてかじっていたのを見ていた。旗は、茄子の畝にしか立てていなかった。風が、隣の畝まで霧を運んだのかもしれない。
和也は一晩、診療所の固い寝台で点滴を受けた。春江はその横で、和也の小さな手を握っていた。明け方、和也は目を開けて、言った。
「母ちゃん。トマト、まずかった」
春江は、声を出さずに泣いた。
その夏、春江は気づいた。用水路に、蛍が一匹も飛ばなくなっていた。
子どもの頃、山の家の谷川には、夏の夜になると蛍が群れた。母に手を引かれて橋の上に立つと、足元から光が湧いてくるようだった。嫁いできた年、この村の用水路にも、蛍はいた。進と並んで縁側から眺めた晩もあった。
いつから、いなくなったのだろう。春江は暗い用水路の縁にしゃがんで、長いこと水音を聞いていた。
その晩、春江は簞笥の奥から、藁でくくった手紙の束を出した。山の母が残した束だった。いちばん上の紙切れの、ひらがなを指でなぞった。
半分は虫に、半分は人に。それで勘定が合うんじゃ。
段々の畑で、空き缶を手に笑っていた母の声が、耳の奥でした。
翌朝、春江は源蔵の前に座った。
「お義父さん。畑の端の一畝だけ、薬を撒かんと作らせてください」
源蔵は茶をすすりながら、春江の顔を見た。
「虫に、食われるぞ」
「食われます」
「売り物に、ならんぞ」
「なりません。たぶん」
源蔵は腕を組んで、うーむと唸った。やがて湯呑みを置いた。
「……一畝だけじゃぞ」
イネは、台所で聞いていた。夕飯のとき、箸を置いて言った。
「世間体が悪い。人さまに、何と言われるか」
春江は答えなかった。世間が何と言うかは、だいたい分かっていた。
世間は、思ったとおりのことを言った。
井戸端では、門の家の後家さんはしわいけえ、薬代までけちっとる、と囁かれた。しわい、というのは、この辺りの年寄りの言う、けちんぼのことである。春江はそれを聞いても、言い返さなかった。半分は当たっていたからだ。子ども三人を抱えた後家の家計に、薬代は軽くなかった。きれいごとだけで始めたのではない。春江はそのことを、誰より自分がいちばんよく知っていた。
農協の指導員が、わざわざ畑まで見に来た。
「奥さん。そりゃあ、戦前の百姓のやり方じゃ。今は科学の時代ですで」
「科学で、蛍は戻りますか」
指導員は、言葉に詰まった。詰まった末に、苦笑いを浮かべた。
「蛍で、飯は食えません」
「そうですね」
春江も笑みを返した。指導員は首を振りながら帰っていった。
垣根の向こうからは、利平の声がした。
「門の家は、虫の養殖を始めたらしいのう。そのうち、朝市で虫を売るんじゃろう」
「売れたら、利平さんにも分けてあげます」
「いらん」
利平は鼻を鳴らして行ってしまった。その晩、利平の家の鶏小屋から、やけに賑やかな鳴き声が聞こえた。春江が昼間、垣根の脇に置いておいた青虫の缶が、なくなっていた。
虫取りは、毎朝、日の出前に家族総出で行った。
春江は子どもらに空き缶を持たせて、駄賃を決めた。虫十匹で一円。和也は張り切って、最初の朝に三十匹とってきた。数えてみると、半分は蟻だった。
「蟻は、勘定に入らん」
「蟻も、虫じゃ」
「葉っぱを食わん虫は、勘定に入らんのじゃ」
和也は不服そうに頬をふくらませた。浩二は、葉の裏をのぞきこむのが怖くて、いつも缶を抱えたまま、兄の後ろにいた。
健一だけは、違った。健一はどこからか古い帳面を持ってきて、毎朝、とった虫の数を書きつけた。日付、天気、畝の番号、虫の種類。青虫、夜盗虫、てんとう虫の偽物。字は小さく、几帳面だった。
「健一ちゃん、それ、何にするん」
「……分からん」
健一は、それしか言わなかった。けれど帳面は、夏が終わっても、秋が終わっても、続いていた。
春江は、思いつくことは何でもやった。唐辛子を水に漬けて、葉に撒いた。竈の灰を株元にまいた。茄子の根元に葱を植えた。山の母が昔そうしていたのを、うろ覚えで真似たのだった。鶏を畑に放したら、虫と一緒に苗まで食べられた。
一年目の一畝は、ひどい出来だった。
キャベツは、葉がレース編みのように透けていた。胡瓜は曲がり、茄子には傷があった。それでも春江は、そのうちの見栄えのましなものを選んで、農協の朝市に並べてみた。
誰も、手に取らなかった。隣の台の、穴一つない青々としたキャベツが、次々に売れていった。昼過ぎ、春江は一つも減っていない籠を抱えて、帰った。
その晩から、門の家の食卓には、穴だらけの野菜ばかりが並んだ。
「母ちゃん、また虫の食い残しじゃ」
和也が箸でキャベツをつまみあげた。光に透かすと、穴が星のように並んでいた。
「虫の食い残しじゃない。虫のお下がりじゃ」
「同じことじゃ」
「同じじゃない。お下がりは、ありがたいもんなんよ」
春江は、自分がいちばんたくさんのお下がりを着て育ったことを思い出して、ひとり可笑しくなった。
浩二は、神妙な顔でキャベツの穴を数えていた。数え終わると、口に入れた。
「……甘い」
春江は箸を止めた。
「甘いじゃろ」
「うん。なんか、甘い」
「虫はな、まずいもんは食わんのじゃ。虫のほうが、人間より舌が正直なんよ」
春江は言いながら、喉の奥がつまるのを感じた。母の言葉を、自分の口で言うのは、初めてだった。
次の朝市の朝、和也が、厚紙の切れ端に、クレヨンで何か書いてきた。
「母ちゃん。これ、立てとき」
厚紙には、大きなひらがなで、こう書いてあった。
「むしも すきな あじです」
春江は、それを長いこと見ていた。見終えると、黙って籠の前に立てた。
その日も、ほとんど売れなかった。けれど、通りがかった年寄りの女が一人、札を見て笑って、キャベツを一つ買っていった。
「懐かしいのう。昔の菜っ葉は、みんな、こうじゃった」
女はそう言って、穴だらけのキャベツを、大事そうに風呂敷に包んだ。




