残された家
法事が一段落した頃、実家から正一が訪ねてきた。
座敷に通された正一は、なかなか茶にも手をつけなかった。やがて、ぼそりと言った。
「春江。帰ってこい」
春江は湯呑みを手に、押し黙っていた。
「子どもらも連れてこい。家は広い。誰も文句は言わん」
庭では三人の息子が走り回っていた。笑い声が座敷まで届いた。
春江はゆっくりと湯呑みを置いた。正一の顔を見て、何か言いかけて、やめた。
「……お茶、いれ直すわ」
「春江」
「兄ちゃん」
春江は顔を上げた。
「ありがとう」
言葉は、それきりだった。正一は目を伏せた。そして、頭を一度だけ深く下げた。それが妹に向けたものだったのか、この家に向けたものだったのか、春江には測りかねた。
正一が帰ったあと、春江は台所で長いこと洗い物をしていた。
イネが音もなく入ってきて、布巾を取った。春江の隣に立ち、洗い終えた皿を一枚ずつ拭きはじめた。姑も嫁も、ひと言も発しなかった。皿を拭く音と、水の音だけが台所に響いた。
最後の一枚を拭き終えると、イネは布巾をきちんと畳んで棚に戻した。そして、入ってきたときと同じように、静かに出ていった。
春江がなぜ残ったのか。子どもたちのためだったのか、ほかに何か理由があったのか。それは誰にも話さず、誰にも聞かれなかった。
四十九日が過ぎると、春江は進の作業着をほどいて、子どもらの野良着に縫い直した。健一の分、浩二の分。和也の分には布が足りず、胴は古い浴衣の端切れで継いで、袖だけが父の青い色になった。
和也はその袖が気に入って、どこへ行くにも腕をまくらずに着ていた。泥だらけになって帰ってくると、春江はその袖だけを、ほかより丁寧に洗った。
翌朝から、春江はこれまでどおり田に出た。
源蔵は年を重ねて動きが遅くなり、イネは腰を押さえるようになっていた。春江がその分まで動いた。苗を植え、草を取り、稲を刈った。子どもらを学校へ送り出し、その合間に畑へ走った。日が暮れると飯を炊き、洗濯物を畳み、宿題を見た。
農機小屋には、耕運機が一台あった。動かせるのは、進と源蔵だけだった。
「……春江、動かせるか」
小屋の入口で、源蔵が誰にともなく言った。
春江は機械を見上げた。大きな車輪、古びた座席、錆びたレバー。
「動かせる、とは、言えません」
「そりゃそうじゃ。教える」
翌朝、春江は源蔵の横で座席に座った。エンジンがかかると、全身が震えた。レバーを倒すと、機械がぐんと前に出た。
「止めえ、止めえ」
「どれが止まるんですか」
源蔵の怒鳴り声と春江の悲鳴が重なって、機械は畦の手前でぎりぎり止まった。小屋の陰で、近所の子どもたちが手を叩いていた。
三日目には、春江はひとりで田を耕していた。一週間後には、村の噂になった。門の家の嫁は、耕運機に乗る。
その音を聞きつけて、利平が畦に現れた。
「後家さんが耕運機とは、世も末じゃのう」
春江はエンジンを止め、座席から利平を見下ろした。
「利平さん。うちの田、今年は、あんたとこより先に耕し終わりますけん」
「何を」
「見とってください」
春江はもう一度エンジンをかけた。機械は田の端まで、一度も曲がらずにまっすぐ進んだ。畦に立つ利平の口が、だんだんと開いていった。
「……なんじゃ、あの嫁は」
利平はぶつぶつ言いながら帰っていった。その背中を、ふみが日傘の陰から、にやにやと見送っていた。
春の田植えの日、門の家の田に一族が集まった。人手のなくなった家を、皆で助ける。それがこの村の、昔からのやり方だった。春江は集まった顔を一人ずつ数えた。数えるたびに、数が増えていった。
遅れて利平が現れた。いつもの青いシャツで、腕を組んで畦に立った。
「どれ、見に来てやったぞ」
「見るだけですか」
ふみが言った。
「……苗を、配ってやる」
利平はぶつぶつ言いながら、苗の束を一人ずつに配って歩いた。配り方はいちばん几帳面で、口はいちばん悪かった。
「そこ、曲がっとる」
「そっちも、曲がっとる」
「あんたは……まあまあじゃ」
その日、門の家の田は、一日で植え終わった。夕日の中、利平は畦に座って、握り飯を一つ、むっつりとほおばっていた。春江が茶を差し出すと、受け取って飲んで、言った。
「……ぬるいのう」
「すみません」
「ぬるいが、飲める」
春江は笑った。進が死んでから、声を出して笑ったのは、それが初めてだった。
ある朝、畦で、源蔵が呟くように言った。
「……すまんのう」
春江は苗を持つ手を止めずに答えた。
「何がですか」
源蔵は、それきり口を開かなかった。
春江は、この家に残った。その決断の意味は、ひとことでは言えない。ただ、それから三十年あまり、春江は一度も、そのことを悔やむ言葉を口にしなかった。




