突然の別れ
進は、頼まれごとを断るのが下手な人だった。役場の仕事が長引いても田の水を見に行き、父親に呼ばれれば鍬を持ち、母親が春江のことをこぼせば、まず口を挟まずに話を聞いた。聞き終えてから、「春江も、朝から働いとる」と静かに言った。春江はその一言に何度も助けられた。けれど進自身が疲れたと言うのを、聞いたことはほとんどなかった。
その朝、進はいつもより早く起きた。役場へ出る前に水口を見ておきたいと言って、まだ湿った草履を履いた。
「今朝ぐらい、休みんさい」
春江は味噌汁をよそいながら言った。
「帰ったら、休む」
進はそう答えて、戸を引いた。朝の光の中で、白いシャツの襟が少しよれていた。直してやろうと思って、春江はしゃもじを置くのが一拍遅れた。進はもう畦のほうへ歩いていた。
その日の夕方、役場から戻った進が、着替えもせずに納屋へ入った。間もなく、何かの倒れる音がした。
春江が走ると、進は土間に片膝をつき、何かを言おうとしていた。口は動くのに、声にならない。春江は肩を支えて、名前を呼んだ。何度も呼んだ。近所の男が自転車を飛ばし、誰かが車を回してきた。
脳卒中だと医者から聞かされたとき、春江の目に映っていたのは、進の右手にこびりついた泥だった。朝、水口を見に行ったときの泥だった。進は二日目の明け方に、一度も目を開けないまま逝った。三十四だった。
通夜の晩、門の家の台所は、一族の女たちが取り仕切った。門には「忌中」と書いた半紙が貼られ、台所ではお斎の大鍋が煮え立った。大皿に盛り、座敷へ運ぶ。春江はその輪に入ろうとして、包丁を握った。横から、そっと取り上げられた。
「春江さんは、ええ。座っとき」
ふみだった。
「うちは、皿洗いでもします」
「皿洗いも、せんでええ。あんたは今日は、何もせんでええ」
春江は台所の隅に立ち尽くした。何もしないことが、いちばん難しい夜だった。
健一は泣かなかった。泣きじゃくる和也を背中におぶって、廊下の端から端まで、ゆっくりと歩いていた。空いたほうの手で、浩二の手を握っていた。やがて和也が寝息を立てはじめたとき、健一は初めて小さな声で言った。
「……大丈夫じゃ」
誰に言ったのかは、健一自身にも分かっていなかったろう。
夜更け、誰かが言った。門の外の暗がりに、青いシャツの男がひとり、長いこと立っていた、と。中には入らず、線香もあげずに、明け方近くに帰っていったという。春江はそれを、ずっと後になって聞いた。
葬儀の日のことを、春江は長いあいだ、細かくは語らなかった。覚えているのは、玄関に並んだ草履の数と、座敷を出入りする人の足音と、子どもらの笑い声だった。
浩二は四つ、和也は二つだった。白い布の掛かった座敷をのぞいても、すぐに庭へ戻る。親戚の子に追いかけられて、下駄の音を響かせて走り回った。誰かが「静かにしんさい」と言うと、二人は顔を見合わせ、口を押さえて、くすくすと肩を震わせた。
春江は二人を呼び戻そうと立ち上がり、やめた。あの子らは知らないのだ。明日の朝も、明後日の朝も、父親が帰ってこないことを。笑い声は納屋の陰へ遠ざかり、春江は膝の上で手を重ねた。
健一だけは、座敷の隅から動かなかった。父の声も、役場から帰ってくる足音も、覚えていたからだった。読経が終わると、健一は玄関へ行き、父の草履を端に揃えた。父の足の形が残った鼻緒を、指で一度、押さえた。
野辺送りの列は、田の中の一本道を、墓のある丘までゆっくりと進んだ。先頭で鉦が鳴り、白い幟が風にはためいた。位牌を持ったのは、六つの健一だった。大人の誰かが持たせようとすると、健一は首を振って、両手でしっかりと抱え直した。
田では、植えたばかりの苗が揺れていた。進が朝、水口を見に行った田だった。列が畦にさしかかると、田で草を取っていた近所の年寄りたちが、腰を伸ばし、笠を取って、頭を下げた。春江はそれを、ひとつひとつ、目の端で見ていた。
夜、親戚が引き上げたあとの台所に、春江は三人の子と座った。誰の口からも、言葉は出てこなかった。柱の時計だけが鳴った。
春江は顔を上げて、笑おうとした。うまく笑えなかった。それでも言った。
「ご飯、食べようか」




