井戸端
井戸端は、村の噂が集まる場所だった。
洗い物の手を動かしながら、女たちはよく話した。誰の家の畑の出来がいい、誰の家の嫁がよく働く、誰の家の息子が町へ出て帰ってこない。笑い声と水の音。助け合いの話も愚痴も、そこでは同じ温度で語られた。
ある日、隣村の嫁が実家へ帰ったまま戻らないという話が流れてきた。
「ほんまか」
「ほんまじゃって。お姑さんと、うまいこといかんかったらしい」
「いやあ、気の毒に」
「気の毒がっとる顔じゃないで、あんた」
女たちが声をひそめて含み笑いをした。春江は口を結んで大根を洗っていた。冷たい水が、指のあいだを流れていった。
「春江さんは、どう思う」
急に話を向けられた。
「……分からんです」
「分からんことはないじゃろ。同じ嫁の立場じゃろうに」
「立場は、人それぞれじゃけん」
そう答えて、春江は笑ってかわした。女たちはつまらなそうに話題を変えた。
別の日、年上の女が、春江の顔をのぞきこんで言った。
「春江さん、子どもは、まだかいな。昔から言うじゃろ。嫁して三年、子なきは去れ、いうて」
水の音が、ふっと途切れた。女たちの目が春江に集まった。
春江は洗っていた大根を、そっと置いた。そして、にこりとした。
「大根のほうが、先に育ちそうです」
どっと笑いが起こった。聞いた女は一瞬きょとんとして、それから一緒になって腹を抱えた。
帰り道、ふみが横に並んだ。
「うまいこと言うたな」
「何も言うとらんよ」
「それが、うまいんじゃ。噂はな、犬の遠吠えじゃ。聞こえても、一緒になって吠えたらおえん。人の噂も七十五日いうてな、三月もせんうちに、みんな次の噂に乗りかえる」
「ふみさんは、吠えたこと、ないん」
「あるわ。何回も。吠えたあとで、いつも後悔する」
二人は並んで、夕暮れの畦道を歩いた。
電柱の上の有線放送が、夕方の知らせを流しはじめた。どこそこの家の牛が子を産んだ。明日の寄り合いは七時から。最後に、隣村の年寄りの葬式の日取りが告げられた。ふみは立ち止まって、手を合わせた。春江も、知らない人のために、手を合わせた。この村では、知らない人のために手を合わせることが、知っている人になるはじまりだった。
その晩、春江は風呂の火を焚きながら、薪が燃え尽きるのを、いつもより長く見つめていた。
秋の溝さらいの日、春江は一度だけ、集まりの刻限に遅れた。前の晩、イネが腰を痛めて寝つけず、春江は夜明け近くまで腰をさすっていたのだった。鍬を抱えて着いたときには、もう男衆が泥を上げていた。
隣の組の女が、春江を見て鼻で笑った。
「若い嫁はええな。年寄りを口実にできて」
春江は笑い返せなかった。
ところが昼になると、その女は春江に、握り飯を一つ余計に渡した。
「あんた、朝から何も食べとらんじゃろ」
春江は礼を言った。助けられたのは本当だった。朝の言葉が刺さったのも本当だった。どちらか片方だけ覚えておければ楽なのに、人の心はそうはいかない。
その晩、春江は進に愚痴をこぼした。
「この村の人らは、何をしても見とる」
進はひとしきり考えてから言った。
「見とるけえ、困ったときにも気づいてくれるんじゃろうな」
春江は腹が立った。
「あんたは男じゃけえ、そう言えるんよ」
進は言い返さなかった。だいぶたってから、「そうじゃな」とだけ言った。春江が欲しかったのは、村の理屈ではなかった。今日一日しんどかったということを、誰かに分かってもらいたかったのだ。進はそれを分かったのかどうか、暗がりで春江の手の甲に、自分の手をそっと重ねた。
翌日、春江が洗濯物を取り込んでいると、昨日の女が垣根越しに声をかけてきた。
「お姑さんの腰、どうな」
春江がうなずくと、女は新聞紙の包みを差し出した。卵が四つ入っていた。
「うちの鶏が、ようけ産んだけえ。粥にでもしてあげ」
言いながら、女は春江の顔を見ようとしなかった。春江も、昨日のことは口にしなかった。礼を言うと、女は「ほんなら」と足早に帰っていった。
包みを台所に置いて、春江は卵を一つ、手のひらに載せた。まだ少し温かかった。昨日言われた言葉は消えない。それでも、この卵でイネに粥を炊こうと思っている自分がいる。腹立たしさとありがたさが、同じ手のひらに載ることもあるのだった。春江は卵を割って、黄身を箸で崩した。
寄り合いの席で春江が控えめに座っていると、誰かが言った。
「山から来た嫁さんは、遠慮深いのう」
春江は湯呑みを置いた。
「遠慮しとるんじゃのうて、まだ、誰の悪口を言うたらええか覚えとらんのです」
座敷が一瞬静まり、それから、奥のほうから笑いが起こった。いちばん大きな声を上げたのは、端の席で腕を組んでいた利平だった。
この村では、手を貸してくれる人と、陰で噂をする人が、同じ人であることも珍しくなかった。稲が倒れれば、頼まなくても隣の男が起こしに来る。その男の女房が、翌朝には井戸端で、あそこの嫁は段取りが悪いと言う。春江はそれを恨みきることができなかった。借りた鎌は返さねばならないし、来月の溝さらいでは、また同じ顔と並んで泥を上げるのだ。
町なら、気の合わない人と会わずに済む日もあるだろう。ここでは、嫌な言葉を聞いた相手から、翌日、苗を分けてもらうことがある。春江が強くなったのは、言い返すことを覚えたからだけではなかった。人の親切と意地悪さが、同じひとりの中に住んでいることを知ったからだった。




