い草の夏
その頃、このあたりの田では、稲の裏作にい草が育てられていた。
梅雨が明けた七月、刈り取りの時期が来る。まだ暗いうちから田に入り、背丈を超える緑の草を刈り取っていく。日が昇ると気温は一気に上がり、汗が目に入った。
刈ったい草は、泥を溶いた槽に浸され、庭いっぱいに広げて天日に干される。春江は、その並べ方を源蔵に教わった。
「均等に、じゃ。薄うても、厚うてもおえん」
「はい」
昼、源蔵が冷えた麦茶を運んできた。
「ほれ」
「ありがとうございます」
「暑いのう」
「暑いです」
「……暑いのう」
源蔵はそれしか言わなかった。それでも麦茶を差し出す手は、毎年、同じ刻限に伸びてきた。
ある日、春江は刈り取りの途中で足を滑らせ、い草の中に尻もちをついた。刈ったばかりの緑の束が、ばさりと頭の上から降ってきた。春江はい草の中から顔だけ出して、目を丸くした。
「……こけた」
縁側で見ていたイネが、突然、吹き出した。声を殺して、肩を震わせている。
春江は驚いた。イネが笑うのを、初めて見た。
「笑わんで、ください」
「笑うとらん」
「笑うとります」
「笑うとらんが……い草まみれじゃ」
イネはもうたまらなくなって、腹を抱えた。庭の隅では進も、背中を向けて肩を揺らしている。春江はい草に埋もれたまま、つられて笑い出した。
その晩、春江が縁側で腰をさすっていると、イネが無言で湿布を一枚差し出した。
「貼っときんさい」
「ありがとうございます」
「背中は、自分では貼れんじゃろ」
イネは春江の後ろに回り、手際よく湿布を貼った。ひんやりとした感触と、イネの指の固さが、背中に伝わった。
「明日も量が多い。早う寝んさい」
言い置いて、イネは座敷へ消えた。湿布の匂いが、夜風にまじって、いつまでも残っていた。
後になって、このあたりの田から、い草は少しずつ消えていった。畳表の値が下がり、継ぐ者が減り、田はまた米だけになった。けれど、あの夏の泥の匂いと、初めて聞いたイネの笑い声は、春江の中にずっと残ることになる。




