第5話 おかえり、いってらっしゃい
その知らせが村に届いたのは、シオンが旅立ってから七年目の初夏だった。
「近隣で魔物の目撃情報が相次いでいる。勇者様御一行が対応のためこちらへ向かっており、ついでに補給のためこの村に立ち寄られる予定です」
王都からの使者がそう告げた瞬間、村は沸き立ちながらも、どこかざわついた空気に包まれた。魔物の目撃情報――穏やかではないその響きに、久しぶりの再会を喜ぶ気持ちと、不安とが入り混じる。
*
「本当に……来るのかな」
シオンの好きな惣菜パンを、いつもより多めに仕込みながら、ミアは同じ言葉を何度も呟いていた。補給のために立ち寄る、とは聞いている。けれど今回は、単なる補給ではない。魔物への対応のついで、という話だ。もしかしたら、ゆっくり顔を合わせる時間もないかもしれない。そんな不安が、朝からずっと胸の奥にわだかまっていた。
浮き足立つ村人たちの中で、ミアだけが、そわそわと落ち着かない一日を過ごした。
*
異変が起きたのは、日が傾きかけた頃だった。
けたたましい警鐘が、村中に鳴り響いた。
あの音の意味を、村人なら誰もが知っている。魔物襲来の合図であり、同時に「教会へ集まれ」という合図でもあった。
「魔物だ! 森の方から来てるぞ!」
誰かの叫び声に、村中が一気に色めき立つ。ミアも反射的に、教会へ向かって走り出した。あの日――十四歳の夜と同じ、けたたましい鐘の音。あのときの記憶が、否応なく蘇る。
村人たちが教会に身を寄せ合う中、外からは、何かがぶつかり合うような激しい音と、獣の唸り声が響いてくる。
「大丈夫だ、心配ない!」
そう叫んだのは、ガイだった。
「勇者様御一行が、ちょうど到着されたところだ! もう、心配いらない!」
その言葉に、ミアの心臓が跳ねた。
*
教会の窓から見えたのは、大盾を構え、仲間を庇いながら魔物と対峙する、一人の騎士の姿だった。
記憶の中の彼より、肩幅も纏う気配も、まるで違う。けれど、黒髪の下の薄紫色の瞳だけは、あの頃のままだった。
シオンだった。
魔物の爪が振り下ろされるたび、シオンの盾がそれを受け止める。仲間を守るように、常に前へ前へと進み出る立ち位置だった。その隙をついて、僧侶マリアが治癒魔法で味方を支え、魔法使いリディアが足止めの魔法を放ち、盗賊バルトが背後から攪乱する。そして最後、開いた隙を逃さず、勇者エドの剣が魔物の急所を貫いた。
かつて、「ミアを守れるくらい強くなりたい」と、木剣を振り始めた少年がいた。あの日の願いが、今、目の前で、仲間を、そして村そのものを守る盾になっている。
やがて、最後の一撃と共に、魔物が崩れ落ちる。
「――片付いた!」
勇者エドの声が響くと、村人たちから、どっと歓声が上がった。
*
危機が去ったあと、村人たちが教会から次々と外へ出ていく。ミアも、震える足を叱咤して、その流れに続いた。
「見て、あの人、僧侶様よ」
「噂に聞いてたけど、本当にお綺麗ねえ」
「なんでも、隣国の王女様なんですって」
「へえ、可愛いじゃない。……あれ、シオンさんといい感じじゃない?」
すれ違いざまに聞こえた村人たちの噂話に、ミアの心臓が、小さく跳ねた。何気なく振り返ると、マリアが村人たちの視線に気づいて、ほんのりと頬を染めている。
その仕草だけで、二人がお似合いに見えてしまう。ミアの気も知らず、村はざわめき続けていた。
剣を鞘に収めたシオンが、村人たちの間を縫うように、忙しなく視線を彷徨わせている。何かを、あるいは誰かを探すように。
目が合った瞬間、時間が止まった。
「……シオン」
声にならない声だった。それでも届いたのだろう。シオンは、剣を握ったままの手で、まっすぐにミアのもとへ駆け寄ってきた。
村人たちの前で、はばかることなくミアを抱きしめる。
「ミア、無事だったか? 怪我は?」
「……うん」
声を震わせながら、ミアはシオンの背に腕を回した。七年分の想いが、その一瞬に押し寄せてくる。
「ただいま」
「おかえり」
しばらく抱き合ったあと、シオンは名残惜しそうに身を離すと、振り返ってエドに向き直った。
「エド。……少しだけ、二人にしてくれないか」
「もちろん」
エドは頷いたものの、すぐに申し訳なさそうに続けた。
「ただ、悪いんだが……今日はこの村に長居できないんだ。近隣の魔物の掃討が、まだ終わってない。日が暮れる前に、次の集落へ向かわないと」
その言葉に、ミアの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「そう、なんだ……」
「本当にすまない。……時間、ちゃんと取ってやれなくて」
エドは、心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「十五分だけでも、いいか?」
シオンの問いに、エドは頷いた。
「ああ、それくらいなら。……悪いな、二人とも」
*
十五分。それだけの時間を、二人は、ミアの家で過ごした。
店の奥、かつて二人で暮らした部屋に入ると、シオンは懐かしそうに部屋を見渡した。
「変わってないな、ここ」
「うん。……シオンが帰ってきたときのために、ずっとそのままにしてたの」
ミアがそう言うと、シオンは少し泣きそうな顔で笑った。
そのとき、シオンの視線が、小さなテーブルの隅で止まった。一輪の、薄紫色の花。
「……この花」
ミアが何か言うより先に、シオンは静かに悟ったようだった。自分の名前と同じ色をした花が、そこに飾られている意味を。
「……寂しい思い、させたな」
その一言に、ずっと堪えていたものが、ミアの目から溢れ出した。
「……っ」
「ごめん」
シオンがそっとミアを抱き寄せる。ミアは声を殺して、シオンの胸に顔をうずめた。
しばらくして涙が落ち着くと、ミアは照れくさそうに袖で目元を拭った。
「……ごめんね、湿っぽくなっちゃって」
「いいよ、それくらい」
「……大きくなったね、シオン」
「え?」
「体つきというか……纏う空気が、全然違う」
シオンは苦笑して、自分の手のひらを見下ろした。
「そう、かな。自分じゃよくわからない」
たわいのない会話を重ねながら、二人は久しぶりの時間を惜しむように、寄り添って座った。窓から差し込む夕暮れの光の中、どちらからともなく手を重ね、それから、どちらからともなく唇が重なった。
十五分は、あっという間に過ぎていった。
*
二人が店先に戻ると、一行はすでに出発の支度を進めていた。
「シオン様、その傷、まだ痛みません?」
マリアが、シオンの二の腕にそっと触れながら尋ねる。自然な、けれど親密な仕草だった。
「もう平気です。マリア様のおかげで」
「無理しないでくださいね。……あなたに何かあったら、困りますから」
柔らかく笑うマリアの横顔に、他の誰も違和感を覚えていないようだった。旅の間、幾度となく繰り返されてきたのだろう、ごく自然なやりとり。
ミアだけが、その光景から少し取り残されたように感じていた。
――当たり前だ。旅の間、シオンを支えてきたのは、私じゃない。
戦場で共に戦い、傷を癒し、生死を分かつ瞬間を分かち合ってきたのは、目の前のこの人だ。七年という歳月は、二人の間に、ミアの知らない絆を積み上げていた。
――シオンには、マリア様の方が、お似合いなんじゃないだろうか。
考えたくないのに、考えてしまう。一度浮かんだその思いは、簡単には消えてくれなかった。
*
出発の準備は、あっという間に整った。ミアは、朝から焼いていたパンを、パンパンに膨らんだ袋に詰めた。
――本当に来るなんて、思ってなかった。
そう思いながらも、ほんの少しだけ期待して、いつもより多く仕込んでおいたシオンの好きな惣菜パンだった。特別なものではない。それでも、今日という日のために焼いた、精一杯のものだった。
「これ……今朝、焼いたの。シオンの好きな、ベーコンのパン」
「ありがとう、ミア」
差し出した袋を、シオンは大切そうに受け取った。
村の入り口で、二人はしばらく見つめ合った。それから、シオンがそっとミアの頬に手を添え、唇を重ねた。人前であることも忘れて、まっすぐに。
「また、待たせてしまうかもしれない」
離れ際、シオンは静かに言った。
「けど、必ず魔王を倒して、戻ってくる。約束する」
その瞳に迷いはなかった。だからミアも、笑顔でうなずいた。
「うん。……待ってる」
そう答えながらも、ミアの心の中では、小さな声が問いかけていた。
――あと、何年待てばいいんだろう。
一度浮かんだその疑問は、簡単には消えてくれなかった。それでも、ミアは笑顔のまま、遠ざかっていく一団の背中を見送り続けた。
*
その足で、ミアは教会の墓地へ向かった。両親の墓の前に膝をつくと、堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「お父さん、お母さん……私、シオンの隣に、いていいのかな」
嗚咽混じりの声が、静かな墓地に吸い込まれていく。
「シオン、かっこよくなってたよ。……びっくりするくらい」
そう言った拍子に、少しだけ笑みがこぼれた。けれど、すぐにまた顔が歪む。
「でも……なんだか、私の知ってるシオンじゃないみたい。そんな気も、少しした」
七年という歳月は、シオンの体つきだけでなく、纏う空気まで変えていた。頼もしくなった、というべきなのに、なぜか少し、寂しくもあった。
「マリア様、綺麗な人だった。……お似合いだって、思っちゃった」
あんなに綺麗な人が、ずっとそばで支えてくれていたなら……私のことなんて、いつの間にかどうでもよくなっていても、おかしくない。
今日はまだ、私のことを好きでいてくれた。それだけで、十分すぎるほど嬉しかった。
――でも、あと数年、また離れていたら。
そのときも、同じ気持ちでいてくれる保証なんて、どこにもない。
「私……あと何年、待てばいいんだろう」
「シオン、本当に……帰ってきてくれるのかな」
言葉にするたび、涙が止まらなくなる。
少し離れた場所で、シスターと牧師が、そっとその様子を見守っていた。二人は何も言わず、ミアが泣き止むまで、ただそこに立ち続けた。
七年目の「いってらっしゃい」は、ミアの心に、初めての夏の朝とは違う種類の傷を残していった。




