第3話 手紙
旅立ってから、季節はいくつも巡った。
十九歳になったミアは、変わらずパン屋を切り盛りしていた。ただ一つ、シオンが旅立ってから始めた習慣がある。
毎日、十五時になると店を閉める。焼き残ったパンをかごに詰めて、まず向かうのは孤児院だ。かつて自分がそうしていたように、余った分を届ける。幼いころからの習慣だ。
それから教会に寄って、シオンの無事を祈る。最後に、両親の墓の前でしゃがみ込む。
「今日もね、お客さんいっぱい来たよ」
誰に見せるでもない笑顔を消して、そこでだけ、ミアは本当の顔に戻った。時には、弱音がこぼれることもある。
「……寂しいよ、お父さん、お母さん」
「シオン、早く帰ってこないかなあ」
そして帰り道、決まって花屋に立ち寄った。選ぶのはいつも同じ、薄紫色の紫苑の花。子どものころ、母に「シオンって、お花の名前なんだよ」と教えてもらった、あの花だった。
一輪だけ買って、家の小さなテーブルに飾る。萎れれば、また新しいものに変える。それだけの、ささやかな習慣。誰かに気づかれることも、説明することもなかったけれど、その花を見るたび、ミアは少しだけ、シオンが隣にいるような気がした。
それでも、村の人たちの前では、いつも通り明るく振る舞った。心配をかけたくなかったし、待つと決めたのは自分だ。誰かに弱いところを見せるつもりなど、少しもなかった。
けれど、墓の前でこぼれる涙を、たまたま通りかかった牧師やシスターに見られてしまうことが、何度かあった。そういうとき、二人は何も聞かずに、ただ黙ってミアの隣に座ってくれた。
――そうして結果的に、ミアの本当の顔を知っているのは、牧師とシスターだけになっていた。
*
一方、旅を続けるシオンにも、変わらない習慣があった。
立ち寄った町や村では、必ず手紙が出せるかどうかを確認する。可能なら、その日のうちに書いて出す。どんなに強行軍の旅でも、欠かしたことはなかった。
*ミアへ
町に着いてすぐ、まず郵便局を探した。今日はちゃんと出せそうだ。
エドは相変わらず世間知らずで、この間は市場で値切り方を知らずに、店主に完全に足元を見られていた。マリア様が慌てて助けに入っていたよ。リディアの魔法は本当にすごい。崖崩れに巻き込まれかけたとき、一瞬で足場を作って助けてくれた。バルトは相変わらずのムードメーカーで、旅の空気が沈みそうになると必ず場を和ませてくれる。いいパーティーだと思う。
怪我は大したことない。かすり傷程度だ。心配しないでいい。
そっちはどうだ。店は変わりないか。無理はしていないか。
必ず帰る。それだけを支えに歩いている。
シオン*
*
その手紙が届くたび、ミアは何度も読み返した。文字を指でなぞって、シオンの声を想像しながら。
そして、その夜のうちに、返事を書く。
*シオンへ
手紙、ありがとう。何度も読んだよ。エドさんの話、リディアさんの話、笑っちゃった。バルトさんにもよろしく伝えて。
こっちは変わりなし。お店も順調。今日は新しい惣菜パンを考えたの。シオンの好きそうな味、今度食べさせてあげたいな。
怪我、本当に大丈夫? 無理しないでね。
私は大丈夫。ちゃんと待ってるから。
早く、会いたい。
ミア*
書き終えて、ミアは便箋を封筒に入れる。それから、宛名を書く手が止まった。
――どこに、出せばいいんだろう。
旅を続けるシオンに、決まった居場所などない。届け先のない手紙は、結局そのまま、ミアの部屋の小さな木箱にしまわれる。
シオンの手紙は「届く手紙」。
ミアの手紙は「届かない手紙」。
同じ想いを綴っているのに、片方だけが相手に届く。それでもミアは、書くことをやめなかった。届かなくても、書かずにはいられなかった。
*
十九歳の冬、二十歳の春、二十歳の夏……。季節は容赦なく巡っていく。
シオンの手紙は、多いときで月に一通、少ないときは数ヶ月に一通。旅の危険度が増すほど、間隔は開いていった。それでも手紙が届くたび、ミアは店先で小さく飛び跳ねて喜んだ。
*ミアへ
雪山を越えた。凍傷になりかけたが、リディアの魔法でなんとかなった。マリア様の治癒魔法にも、何度も助けられている。
食べ物はひどい。干し肉ばかりで、たまに出る温かいスープが涙が出るほど嬉しい。ミアのパンが恋しい。特に、あのベーコンのやつ。
会いたい。すごく。
でも、必ず帰る。
シオン*
*
二十一歳になる頃には、ミアの木箱は随分と厚みを増していた。一通、また一通。誰にも読まれることのない手紙が、静かに積み重なっていく。
「今日はどんなことがあったの、シオン」
夜、一人になった部屋で、ミアは箱に向かって話しかけることもあった。返事はもちろん、ない。それでも、そうすることでしか埋められない夜があった。
離れていても、想い合う二人。
けれど、その距離がどれほど長く続くのか――このときはまだ、二人とも知らなかった。




