第1話 選ばれた日
夜が明けきる前、シオンは右手の痛みで目を覚ました。
燃えるような、刺すような痛みだった。声を上げそうになるのを堪えて、シオンは自分の右手を見る。手のひらの中心が、うっすらと光を帯びていた。
「シオン……? どうしたの」
隣で眠っていたミアが、異変に気づいて身を起こす。薄闇の中でも、彼の額に汗が浮かんでいるのがわかった。
「わからない……手が、急に」
「見せて」
ミアがシオンの手を取った瞬間、その光は一段と強さを増した。まばゆい光が二人を包み、思わず目を閉じる。数秒後、光が収まって恐る恐る目を開けると、シオンの右手の甲に、見たこともない紋様が浮かび上がっていた。
複雑に絡み合う幾何学模様。まるで最初からそこにあったかのように、皮膚に馴染んでいる。
「……なに、これ」
ミアの声が震えていた。シオンも言葉が出ない。ただの怪我や病でないことだけは、二人ともわかっていた。
「ちょっと待ってて。神父様を呼んでくる」
ミアは着替えもそこそこに、夜明け前の道を教会まで走った。
神父はシオンの手を見るなり、顔から血の気が引くのがわかった。それから、震える声でつぶやく。
「……聖紋だ」
「聖紋?」とミア。
「言い伝えにある。魔王が復活するとき、世界そのものが人を選ぶ、と。剣を持つ者には剣の紋が、癒す者には癒しの紋が……これは、騎士の聖紋だ」
信じられない、というようにシオンは自分の手を見つめた。
「俺が……?」
「シオン、これは村長にも、いや、王都にも報告せねばならない。私にはその義務がある」
神父の言葉に、ミアの表情が凍りついた。
「報告したら、シオンは……」
「わからない。だが……聖紋が現れた者は、必ずその役目に最も適した者だと言われている。国王ですら、選定に介入することはできない」
その日のうちに、村は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。村長が飛んできて、村人たちが我先にとミアの家の前に集まった。
「聖紋だって?」
「この村から、勇者パーティーの一員が出るのか!」
「名誉なことだ、ご先祖様も喜んでいるだろうよ!」
祝福の声が、家の外から次々と聞こえてくる。だが当のシオンとミアは、居間の隅で身を寄せ合ったまま、ひとことも発せずにいた。
数日後、王都から使者が来た。白い装束に身を包んだ使者は、恭しくシオンの前に膝をつき、告げる。
「魔王討伐のため、勇者エド様のご一行が結成されます。あなたには、聖紋によって示された通り、騎士としてこの旅への参加をお願いいたします」
「断ったら……どうなりますか」
シオンの問いに、使者は静かに、だがはっきりと答えた。
「魔王を倒せる者は、聖紋を与えられた者のみ。もし戦力が欠ければ、魔物の脅威は増し、いずれ世界そのものが立ち行かなくなるでしょう。……無論、強制ではございません。しかし」
言葉の最後は、濁されたまま宙に浮いた。それでも、その意味はあまりにも明白だった。
断ることは、事実上できない。
その日の夕方、シオンは一人で教会を訪ねた。物心つく前から世話になった、父も同然の神父に、誰にも見せられずにいた本音をこぼすために。
「神父様……俺、行きたくないです」
うつむいたまま、絞り出すような声だった。神父は驚いた様子も見せず、静かにシオンの隣へ腰を下ろす。
「そうか」
「俺が強くなりたかったのは、ミアを守りたかったからで……世界とか、魔王とか、そんな大層なもののためじゃない。なのに、その強さのせいで、ミアから引き離されるなんて……」
「わかっている。お前がどんな思いで剣を握ってきたか、一番近くで見てきたのは私だ」
シオンは唇を噛んだ。
「それでも、行かなきゃいけないのはわかってるんです。俺が拒めば、魔物は減らない。世界が滅びれば、結局ミアも危険にさらされる。……だったら、行くしかない」
「シオン」
神父はそっとシオンの肩に手を置いた。
「立派なことを、無理に口にする必要はここではない。お前は、もう十分すぎるほど立派だ。だから、せめて私の前でだけは、弱音を吐いていきなさい」
その言葉に、シオンはようやく顔を上げた。目の縁がわずかに赤くなっていた。神父の前でだけは、まだ孤児院にいた小さな子どものころのように、少しだけ弱い自分でいることを許された。
*
その夜、二人きりになってから、しばらくミアは黙ったままだった。シオンも、何を言えばいいのかわからなかった。
ミアを守りたくて、強くなろうと思った。剣を習い、自警団に入った。なのに――その強さが、彼女のもとから自分を引き離そうとしている。こんな皮肉があるだろうか。
「……ミア」
「なに」
「俺、本当は行きたくない」
飾らない本音だった。ミアは驚いた顔をして、それからゆっくりと首を振る。
「知ってる。シオンがそんなこと、望んでるはずないもん」
本当は、ミアにも言いたい言葉があった。
――私も、離れたくない。いっそ、二人でどこか遠くへ逃げてしまおうか。
喉元まで出かかったその言葉を、ミアは飲み込んだ。口にすれば、きっとシオンは頷いてしまう。この人は、そういう人だから。けれどそれを選ばせてしまえば、いつかシオンは後悔する。世界がどうなろうと知ったことじゃない、なんて、この人には言わせたくなかった。
だから、ミアは笑った。無理に作った笑顔だと、自分でもわかっていた。
「待ってるから。……行ってきて」
「ミア」
「何年かかっても、待ってる。だから、ちゃんと帰ってきて」
村に伝わる記録では、過去に選ばれた勇者一行が魔王を討伐するまで、五年で終わった例もあれば、二十年を要した例もあるという。今度の旅がどれほどの歳月を要するのか、誰にもわからない。
それでも二人は、その夜、覚悟を決めた。何年かかっても、待つ。何年かかっても、帰る。
――けれど「待つ」ということが、これほどまでに人の心を削るものだとは。このときの二人は、まだ知らなかった。
出発まで、あと数日。
村中が沸き立つ祝福の中で、ただ二人だけが、静かに壊れていく毎日を数えていた。




