プロローグ パン屋の朝
窯の扉を開けると、焼きたてのパンの匂いが店中に広がった。
朝靄の残る通りに、まだ客の姿はない。色素の薄い茶色の髪をひとつに結わえたミアが、慣れた手つきでパンをかごに並べていく。十八年間、毎朝聞いてきた鳥の声。十八年間、毎朝嗅いできた小麦の匂い。何も変わらない、いつもの朝のはずだった。
――はずだったのに。
「……あれ、また減ってる」
数えていたパンの数が、朝一番でもう一つ足りない。ミアは振り返らなくても犯人がわかっていた。
店の奥、椅子に腰かけたシオンが、頬を膨らませたまま気まずそうに目をそらす。黒髪の下で、薄紫色の瞳が落ち着きなく揺れている。手には食べかけの丸パン。
「シオン」
「……お、おはよう」
ばつが悪そうに答えたシオンが、手の中のパンをふと見下ろして、首をかしげる。
「これ……新しいやつ?」
ミアが「そう」と答えるより先に、彼はもう一口かじっていた。次の瞬間、くしゃっと目を細めて笑う。
「俺、これ好き」
なんでもない一言のはずなのに、屈託のないその笑顔に、ミアは続けようとした言葉を失ってしまう。もう、なんて言うつもりだったのか、自分でもわからなくなる。
今朝の新作は、ベーコンとハーブを練り込んだ惣菜パンだった。ミアの作るパンは、いつからか自然と塩気のあるものが多くなっている。理由は単純だ。甘いパンより惣菜系のほうが好きだと、シオンが言うから。
「もう……減ってると思ったら、案の定」
ようやく口にできたのは、そんな他愛もない一言だった。ミアはもうひとつ新作のパンを取り出して、シオンの前に置く。子どものころから変わらない、あの笑い方で、シオンはそれを受け取った。
シオンは元孤児だった。物心つく前に両親を亡くし、村の教会で育った子どものひとりだ。魔物の被害が絶えないこの世界では、孤児は決して珍しくない。教会を中心に、村人総出で子どもたちを育てていくのは、この村ではごく当たり前のことだった。村の自警団として働き、仕事が終われば当たり前のようにこの店に帰ってきて、パン運びを手伝う。夜になれば、当たり前のようにミアの隣で眠る。
婚約者、というより、もうほとんど夫婦のような二人だった。
「そういえば」とミアが手を止める。「神父様が、そろそろ日取り決めたら、って」
「春、楽しみだな」
シオンがしみじみと言った。
「ミアと、やっと家族だ」
「もう、今更。とっくに家族みたいなものでしょ、私たち」
くすくす笑うミアに、シオンは少し照れくさそうに頭をかいた。
「……まあ、そうか」
その気の抜けたやりとりに、二人で笑い合う。何を今更、と思うくらい、一緒にいることが当たり前になっていた。
朝の光が差し込む店先で、ミアが店の外の掃除を始める。竹箒の音が、いつもの村の音に混じっていく。
「シオン、そろそろ時間じゃない?」
声をかけると、身支度を終えたシオンが奥から顔を出した。
「ああ、行ってくる」
自警団の詰所へ向かうシオンを、ミアは箒を止めて見送った。
近所のおばあさんが通りかかって、ミアに「おはよう、精が出るね」と声をかける。子どもたちが駆けていく足音。教会の鐘。
ありふれた、けれどかけがえのない朝。
――そして夕方。
自警団の詰所での見回りを終えたシオンが、パン屋の扉を押し開ける。からん、とベルが鳴った。
「ただいま」
奥から顔を出したミアが、ふわりと笑う。
「おかえり、シオン」
たったそれだけのやりとりだった。特別でもなんでもない、ただの挨拶。けれどシオンにとっては、一日のうちで一番好きな瞬間だ。剣を握り、村を見回り、時には魔物の気配に気を張る。そうして張り詰めていたものが、その一言でほどけていく。
「今日は少し残ってるの。手伝ってくれる?」
エプロンの小麦粉を軽くはたきながら、ミアが言う。
「もちろん」
厨房に立つと、シオンの手は自然と動いた。誰に教わったわけでもないのに、生地の扱いも、窯の火加減も、もう身体が覚えている。パン屋の跡取りでもないのに、まるで最初からここにいた人間のように。
二人で店を閉め、灯りを落とす。並んで歩く帰り道はほんの数歩しかない。それでもシオンは、その数歩がたまらなく好きだった。
「ただいま」も、「おかえり」も、当たり前すぎて、ありがたみなんて考えたこともなかった。
そんな言葉が、どれほど尊いものだったか。二人が思い知るのは、まだ先のことだ。
その夜、店じまいをしてから、シオンはいつものようにミアを抱き寄せて眠った。規則正しい心音を背中に聞きながら、ミアは思う。
――ずっとこう。
ずっとこのままで、いいと思っていた。
まだこのときは、二人とも知らなかった。
明日という日が、この穏やかな時間に終わりを告げにくることを。




