エピローグ おかえり
数年後。
村のパン屋には、朝から香ばしい匂いが漂っている。
「シオン、そっちの窯もう温まった?」
「ああ、大丈夫だ」
粉まみれのエプロン姿で、シオンが厨房を行き来する。魔王を討伐した英雄が、今はこうして毎朝パンを運んでいることを、村の外の人間が知ったら、さぞ驚くだろう。けれど、村の人々にとっては、もうすっかり見慣れた光景だった。
自警団の仕事は、今も変わらず続けている。パン屋を手伝うのは、その休みの日だけ。それでも、この村では、その両方が当たり前のように馴染んでいた。
「シオンさん、今日もパン美味しいね!」
配達に出たシオンに、子どもたちが駆け寄る。シオンは白い粉をつけたまま、照れくさそうに笑って、焼きたてのパンを一つ差し出した。
*
店の奥、小さなゆりかごの中で、赤ん坊がすやすやと眠っている。ミアとシオンの、大切な宝物だった。
「今日はよく寝てるね」
「昨日、たくさん泣いてたからな」
赤ん坊の頬を、シオンがそっと指でつつく。その仕草は、剣を振るう騎士のものというより、どこにでもいる、ただの父親のものだった。
店の壁際には、今も小さな木箱が置かれている。かつて、届かなかった手紙が詰まっていたあの箱だ。今では、二人で読み返しては笑ったり、少し涙ぐんだりする、大切な宝物になっている。
「ねえ、シオン。今度、この子が大きくなったら、この手紙のこと話してあげようか」
「気恥ずかしいな、それは」
「でも、いつか役に立つかもしれないよ。待つことの意味とか、想い続けることの意味とか」
シオンは少し困ったように笑ってから、ミアの頭にそっと手を乗せた。
「……そうだな。いつか、話そう」
*
その日の午後、ミアとシオンは、赤ん坊を抱いて教会の墓地へ向かった。
ミアの両親の墓の前に、二人並んで膝をつく。
「お父さん、お母さん」
いつものように、ミアが静かに語りかける。
「私、幸せだよ」
シオンも、墓石にそっと手を添えた。
「これからも、ミアの隣にいます」
かつて、燃え盛る村の中で、シオンの肩を掴んだ父の手。「シオン。ミアを頼む」――あの一言を、シオンはずっと背負い続けてきた。守らなければ、という思いだけで、剣を握り続けてきた時期もあった。
けれど今は、違う。
守らなければいけないから、隣にいるんじゃない。
愛しているから、一緒に生きている。
それだけのことだと、ようやく、心の底から思えるようになっていた。
「ミアのこと、大切にします」
シオンの言葉に、ミアはそっと寄り添った。腕の中の赤ん坊が、小さくくしゃみをする。二人は思わず、顔を見合わせて笑った。
*
墓地からの帰り道、夕暮れのパン屋の前で、シオンが少し先に扉を開けた。
「先に戻って、店閉めとくよ」
「うん。……家で待ってるね」
赤ん坊を抱いたまま、ミアは一足先に家へと向かった。
しばらくして、玄関の扉が開く音がする。振り返ると、粉まみれのエプロンのまま、シオンが立っていた。
「シオン、おかえり」
その一言に、シオンはくしゃっと笑って、答える。
「ただいま」
十年という長い旅の果てに辿り着いた、なんでもない、けれどかけがえのない日常。
シオンの服からは、今日もパン屋の匂いが、ふわりと香っていた。




