第9話 十年分の返事
少し落ち着いてから、ミアとシオンは自宅へ帰った。
部屋に入ってすぐ、シオンの視線が、小さなテーブルの隅に向かった。そこには、あの日と同じように、一輪の薄紫色の花が飾られていた。
七年前、一度だけ見た光景だった。あのときは、ほんの十五分で村を発たなければならなかった。それからさらに三年――あの花は、ずっとそこにあり続けたのだと、シオンは静かに噛みしめた。
「……ずっと、飾っててくれたんだな」
シオンがぽつりと呟くと、ミアは少し照れくさそうに頷いた。
「うん。……なんとなく、ね」
震える手で、ミアは部屋の隅にあった木箱を取り出す。
「これ……見てほしいの」
蓋を開けると、そこには夥しい数の封筒が詰まっていた。黄ばんだものから、比較的新しいものまで。すべてに、同じ丁寧な文字で「シオンへ」と書かれている。
シオンは、しばらく言葉を失っていた。
「これ、全部……?」
「うん。シオンから手紙が届くたびに、私も返事を書いてたの。でも……」
「送れなかった」
ミアは小さく頷いた。
「旅の途中のシオンに、届け先がわからなくて。だから、ずっとこの箱にしまってた」
シオンは震える手で、一番古い封筒を手に取った。
「読んでも、いいか」
「うん……恥ずかしいけど」
一通、また一通と、シオンは手紙を開いていった。
*
*シオンへ
今日、手紙が届いたよ。エドさんの話、笑っちゃった。こっちは変わりなし。早く、会いたいな。
ミア*
*
*シオンへ
お祭りだったよ。去年もシオンがいなかったなって、ふと思い出しちゃった。寂しいけど、大丈夫。ちゃんと待ってるから。
ミア*
*
*シオンへ
今日、ルイスに告白された。断ったよ。シオンのことが嫌いになったわけじゃない。でも、正直に言うね。私……あと何年待てばいいの?
ミア*
その一文で、シオンの手が止まった。
「ルイス……村長の息子の?」
「うん。……いい人だよ、本当に。だから、余計に悩んだ」
シオンは何も言わず、次の便箋に目を落とした。
*
*シオンへ
今日、シスターにも言われたの。もう待たなくてもいい、シオンも怒らないと思うって。優しい言葉だった。でも、私は待ちたいの。誰かに言われたからじゃなくて、自分で決めたことだから。
ミア*
*
*シオンへ
一時帰還のとき、マリア様を見た。すごく綺麗な人だった。シオンの隣にいるのが、当たり前みたいに似合ってた。私、少しだけ、嫉妬しちゃったよ。ごめんね、こんな心の狭いこと書いて。
ミア*
読み進めるたび、シオンの表情が変わっていった。知らなかった十年間。ミアが一人で抱えてきた、寂しさや、迷いや、嫉妬の全部が、そこに綴られていた。
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「知らなかった。お前が、こんなにたくさん、俺のために書いてくれてたなんて」
シオンの声が、かすかに震えていた。
「俺も、立ち寄った町では、必ず手紙を書いてた。出せるかどうか、いつも真っ先に確認してた」
「知ってる。……あ、でも、一年くらい、届かないときがあったの。たぶん魔物が増えてきて、郵送の状況も安定してなかったから」
「……そうだったのか」
シオンは少し考えるように、記憶をたどった。
「たしかに、あの頃は特に危険な地域を通っていた。手紙を出すこと自体、難しい時期もあった」
「そうだったんだ……」
お互い、知らなかった十年間。シオンが送ったのに届かなかった手紙。ミアが書いたのに、渡せなかった手紙。二つの空白を、二人はその日、少しずつ埋めていった。
「あのとき、本当は寒くて心細かった」「その手紙が来た日、私も泣きながら読んだよ」――そんな会話を、何度も何度も繰り返しながら。
*
すべての手紙を読み終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
シオンは、最後の一通を静かに箱へ戻すと、静かに立ち上がった。
「少し待っててくれ」
そう言い残して、シオンは外へ出ていった。しばらくして戻ってきた彼の手には、薄紫色の紫苑がいくつも束ねられた花束があった。
「これ……」
驚くミアに、シオンは少し照れくさそうに笑った。
「さっき、村の花屋に頼んでおいたんだ。……このテーブルの花、ずっと紫苑だったから」
その一言に、ミアの目頭が、また熱くなった。
花束をそっと差し出しながら、シオンはミアの手を取った。
「ミア」
「うん」
真剣な瞳が、まっすぐにミアを見つめる。
「結婚しよう」
十八歳の朝に交わした約束とは、違う言葉だった。「帰ったら」でも、「いつか」でもない。今、この瞬間の、揺るぎない言葉。
ミアの目に、また涙が滲んだ。それでも今度は、笑いながら。
「……うん」
小さく、けれどはっきりと頷く。
「ずっと、待ってた」
窓の外では、村の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。十年という長い夜が、ようやく明けようとしていた。




