第8話 『お疲れ様』
航ちゃんの車に乗せられた私は、まださっき号泣した余韻が残っていて、鼻をグズグズいわせていた。そんな私を横目で見て、航ちゃんがぽつりと呟いた。
「腹」
は……腹!? 腹、出てる!? それって私のこと!? マジで、えええ!?
泣いていたのをすっかりと忘れ、一人あたふたと腹部を隠す私を、航ちゃんは赤信号になった途端に目を向け、深い溜息をついた。
「バカ、何やってんだ」
「え、ええと、腹筋運動……?」
助手席側のドアを左手で掴み、半腰を上げて腹部をプルプルいわせていた私は、震える声で答えた。
これって効く。半腰はぜったいお腹ヘコむ。マジでいいかも。
家に着くまで頑張ってこの体勢を持続して、帰ったら腹筋をせめて十回はやっとこう。
そう心で決意した私に、航ちゃんはもう呆れ返ったって顔をしながら、前に目線を戻してアクセルを踏んだ。
「腹、減ってねえか」
あ……そっち? 腹って、そっち?
ていうか、航ちゃん基本的に主語無いよね!! 悟りの悪い私には、一発で全然伝わらないもん。もっとちゃんとはっきり言ってよね!
……なーんて言える訳もなく。
心の中で絶叫を上げている私を横目で見ている航ちゃんに、私は身体を小さくして呟いた。
「えと……減ってない」
「あ?」
「減って、ない……」
「ああ?」
「……お腹、空いてきちゃったかも……」
本当は、さっきまでの緊張感で食欲どころじゃなかったんだけど。魔王航ちゃんが降臨する雰囲気だったので、私はうすら笑いめいたものを浮かべてそう言っておいた。
すると航ちゃんは、すぐ先にあるファミレスの明かりを見つけ、そこに車を駐車した。
相当お腹減ってるのかな、航ちゃん。そうだよね、今きっと、仕事帰りだろうし。まだ夕飯食べていないんだろうな。
そんな中、私に付き合わせちゃって悪かったな。
そう思いながら、サクサクと車から出て、店内に入る航ちゃんの後を追いかけた。
喫煙席に通された私に、航ちゃんはメニューを無造作に渡す。
「好きなのを選べ」
そう言われたけど、きっと3分以内に選ばないと、例の二択が襲ってくる。
私は慌ててメニューを端から眺めつつも、航ちゃんに目線を上げた。
「航ちゃん、何食べるの?」
「あ?」
「夕飯。まだ食べてないでしょ。先に選んでいいよ」
ただ煙草をふかす航ちゃんにそう言いながら、私のメニューを差し出そうとすると、航ちゃんはそれを軽く押しとどめた。
「いらねえ。俺はもう決まってる。さっさと自分のを選べ」
「へ? 決まってるの?」
「ああ。優香、決めたか。店員呼ぶぞ」
「あっ、ちょ、ちょっと待って、待って!!」
呼び鈴を押しそうになったから、私は慌ててまたメニューと睨めっこ。
本当に決められない。こういうファミレスとかファーストフードに入って、即決出来る人って凄いと思う。
あれも美味しそう、これも美味しそう。
注文した後に後悔したくないから、ウダウダと色々考えちゃう。
ドリアもいいし、チキンのガーリックステーキも捨てがたい。
せっかくなんだから、うちでは食べれないようなものを注文したい。
すんごいニンニク食べたいけど、でも臭いって航ちゃんに怒られちゃうかな。だったらドリアにしておくべきか。
うう、どうしよう、どうしよう。
焦りながらも、優柔不断な私はモタモタと同じページをめくっては唸ることを繰り返している。
そんな私を見て、煙草を吸い終わった航ちゃんは、目を半眼にして見据えてきた。
「まだ、決まらねえのか」
「あっ、うん、待って、ちょっと待って……」
そう言いながら、私は指で挟んだ二ページを行ったり来たり。
そんな私に、地獄の使者の声がした。
「チキンドリアとチキンのガーリックステーキ。どっちにすんだ」
に、二択!!
しかも、今まさに悩んでいる二つを指令されてしまった。
何で、どうして分かったの。私がその二つで悩んでいることが、何で分かったんだろう。
私は目を真ん丸くしていたんだけど、そんな私を見て、航ちゃんは唸るように声を更に低くさせ、脅すように言葉を吐いた。
「早くしろ。ドリアとステーキ、どっちがいいか選べ」
「え、え、ええと、待って、ちょっと待って」
「優香?」
「はっ、はいっ!! え、ええと、チ、チキンのガーリックステーキでお願いします」
「……よし」
まだメニューと睨めっこをしている私を置いて、航ちゃんは呼び鈴ボタンを押してしまった。そしてすぐに来た店員さんに、注文を告げる。にこやか笑顔、全開で。
「すみません、チキンのガーリックステーキをセットで二つお願いします、ライスで一つと、パンで一つ。両方、アイスコーヒーで」
さっさと注文した航ちゃんに、私はぽかんと口を開けてしまった。
そして店員が去った後、煙草に火をつけた航ちゃんに恐る恐る聞いてみた。
「あ、あのね、航ちゃん?」
「あ?」
不機嫌そうな返事にヘコたれそうになるけど、それでも頑張って聞いてみた。
「航ちゃん、私の食べるもんと一緒って珍しくない?」
「……そんなことは無えだろ」
「ううん、そんなこと、あるもん。いつも私と違うもの注文してるじゃん」
そう食い下がったけど、航ちゃんはそれからもう私を相手にしてくれなかった。
やがて、ホカホカ湯気が立つ、芳しいガーリックの香り漂うチキンステーキが運ばれ、私の意識は全てそこに集中される。
「頂きます!」
宣言するなり、熱々のそれを口に含んでは「おいし!」を連発している私を煙草を吸いながら見つめる航ちゃんの視線を感じ、私は首を傾げた。
「航ちゃん、食べないの? 冷めちゃうよ」
「……すんげえ食いっぷりに、思わず見とれた」
そんな失礼な意地悪を言って、唇の端っこを上げた航ちゃんを睨むと、三倍返しくらいのブリザードを食らってしまった。
身体を竦めてパンをちぎって口に運び、そしてそこでやっと気付いた。
……そういえば、航ちゃんってニンニク嫌いじゃなかったっけ?
眉を軽く寄せて、ナイフとフォークを使っている航ちゃんを見つめつつ、私はぼんやりと口にした。
「ねえ、航ちゃん、あの……」
ニンニク、大丈夫になったの?
そう言い掛けた時、航ちゃんはチキンステーキを一口頬張り、その倍以上のご飯を口に入れて、眉を寄せて咀嚼して、すぐにコーヒーでそれを喉に流し込んだ。
「……んだよ」
その一連の動きを、思わず凝視してしまった私に、不機嫌な声が掛けられる。
私ははっとして、慌てて首を振った。
「う、ううん、なんでもない」
「……デザート」
「え?」
顔を上げた私に、航ちゃんは食べきったお皿を押しやりながら、煙草に火をつけた。
「注文しなくてもいい」
あれ、食べちゃだめってことなのかな?
それだったらそれでいいもん。途中でコンビニに寄ってもらって、寝る前にプリンでも食べよう。
そう思っていた私も食べ終わり、店員さんがお皿を下げに来てくれたと同時に、別の店員さんが大きなお皿を手にしてやってきた。
それを、テーブルの真ん中に置くと、私の視線がそこに釘付けになる。
小さな一口サイズのケーキとか、アイスクリームが大きなお皿にいくつも乗っていて。
そして中央の開いている部分に、チョコレートで、だろうか。文字が書いてある。
『お疲れ様』
たったそれだけの文字。
だけど、私は視界が歪んでいくのが分かって、口元に手を当てた。
ふう、と煙草の煙を吐き出した航ちゃんは、その灰をぽんぽんと灰皿に落とした。
「どうした。さっさと食え」
……分かりづらいんだか、分かりやすいんだか。航ちゃんって、やっぱりよく分からない。
だけど、とっても密かに優しいのかも。
派遣最後の日、職場で誰にも言ってもらえなかった言葉が書いてあるチョコレートを、フォークに刺したケーキと共に口に含んだ。
甘いケーキと、ほんのり苦いチョコレート。
実は味は、さっぱり分からなかった。涙を堪えるので、精一杯だった。
だって、本当は気付いてた。
航ちゃん、ニンニク嫌いなのに。私が大好きだからって、付き合ってくれた。
きっと臭うからと気にする私のために、自分もそれを食べてくれた。
そんでもって、最後にこんなサプライズをしてくれた。
辛い思いをした私を、思いやってくれた。
航ちゃんは、絶対言葉には出さないだろう思いを込めて、私を労わってくれた。
『お疲れ様』
誰も言ってくれなかった言葉を、私にくれた。
だから、美味しいはずのデザートの味、さっぱり全然分からなくて。逆にちょこっとしょっぱくて。
「……ごうぢゃん、あ、ありが……」
「……泣いてんじゃねえよ」
航ちゃんは私を見ず、窓の外を眺めながらハンカチを差し出した。それを遠慮なく受け取り、豪快に鼻をかむと、航ちゃんは僅かに眉を潜めて私を見据えた。
「……マジでお前、いい度胸してんな」
そう凄むのをビクビクしながらも無視し、私は鼻がすっきりしたので、デザート征服に勤しんでいたんだけど。
でも、すっかりと平らげて満足したところで、コーヒーをお替りして私の完食を待っていてくれた航ちゃんに、改めて頭を下げた。
「航ちゃん、あの、その、色々、ありがとね」
何て言えばいいかなんて、さっぱり分からない。
だけど、この最終日に迎えに来てくれた。
そして、お食事に連れてきてくれた。
私の食べたいメニューに合わせてくれた。
デザートまでも、前もって注文してくれていた。
こんな奇跡なんてない。何か恐ろしいことが起きる前触れかもしれない。
だけど、……嬉しかった。
だからそう素直にお礼を言うと、航ちゃんは真剣な眼差しで私に向き直った。
ドキッとして、私も思わず佇まいを直す。
お説教!?
だからお前には接客は向かねえって言っただろ。派遣なんてシステムは合わねえってどれほど俺に言わせたと思ってんだ。
っていう、お説教が始まるの!?
お腹パンパンで、とっても幸せな気分だったんだけど、これから襲い来るであろう恐怖の説教タイムに、私のビクビクは絶頂だった。




