第3話 婚約
次の日。
朝から何だかバタバタしているお母さんと、スーツを出してブラシを掛けているお父さんに気付いた。
「おはよう……どうしたの?」
挨拶しながら尋ねると、お母さんは私に振り返り、深い溜息をついた。
「あんた、本当に呑気ねえ。誰に似たんだか」
何よ朝っぱらから、失礼な。
思わず頬を膨らませていると、お父さんが手にしていたブラシをテーブルに置き、時計を見上げた。
「おい、もう九時だぞ。北里さんが来るの、何時だったか?」
「ええと、お昼前に来るって言ってたから、多分十一時くらいだと思うんだけど」
「優香、ボケッとしているんじゃない。母さんをさっさと手伝え!」
……意味分からない。
北里さん? うちに来るの? 何で? 何しに?
きょとんとしていた私だけど、お母さんに指示されるまま、から揚げ揚げたり、サラダのための野菜を切ったり、お刺身を大皿に盛り付けた。
「すごい、ご馳走だねえ」
テーブルの上に並べられた料理の数々に感嘆していると、お母さんは続いて私を私の部屋へと引っ張った。
「あの、あの、お母さん?」
「全くあんたはまともな服を持ってないんだから」
そうブチブチ言いながらも、私の一番のお気に入りの、薄い水色のワンピースを引っ張り出した。
「これでいいや、もう。時間がない、早く着替えなさい」
「え? ええと、何で?」
その私の疑問に答えることなく、お母さんは慌しく部屋を出て行った。
……一体何事?
さっぱりと状況が読めない私は、それでもお母さんに用意されたワンピースに着替えて、リビングで“その時”を待った。
“その時”というのは、お隣の北里さんが来るっていうことで。
何しに来るんだか、全然分からないけど。
でも、北里さんちとうちは、かなり仲がいい。両親同士で旅行に行っちゃうくらい、仲がいい。
だからこうして、ご飯を一緒に食べることなんて、別に珍しくないけど、でも。
こんなにご馳走用意して、お母さんもお父さんもビシッとスーツを着て、私までワンピースを着ての食事会なんて、したことない。
何で?
そう思うけど、一つだけ思い当たることがあった。
でも、まさか。
だって昨日の今日で、こんなことになるなんて、普通思わない。
昨日、航ちゃんが言ってた。
ちゃんと婚約したいって。
恥ずかしいから、婚約コンニャクーなんてふざけたことを言って、ブリザードビームを食らってしまったんだけど、でも。
それが、これ? この意味分からない騒動に繋がってるの?
そんなまさか……どんだけのスピード展開!?
呆然としていた私の耳に、呼び鈴が鳴り響く。
ドキッとして慌てて立ち上がり、玄関に行き、ドアを開けると。
そこに、やっぱりビシッと決めた、航ちゃんちのおじさんとおばさん、それに爽やか全開の笑みを浮かべ、颯爽とスーツに身を包んだ航ちゃんがそこにいた。
「優香ちゃん、こんにちは」
おばさんがにこやかに挨拶をしてくれて、私は慌てて身体をずらした。
「こ、こんにちは。あの、どうぞどうぞ」
そう手で指し示すと、おじさんとおばさんはにこにこと家に上がって、お父さんとお母さんと何やら挨拶を始めだした。
それを目の端で追いながら、別人の笑みを浮かべたままの航ちゃんを睨み上げた。
「航ちゃん、これってどういうこと?」
「どういうことって、一つしかねえだろ、俺とお前の婚約報告」
けろっとして言った航ちゃんに、私は眩暈すら感じた。
「あっ、あのねえ……私まだ、航ちゃんと付き合い始めたことすら、お父さん達に報告してないんだけど!」
そう恨みがましい眼差しを向けて言うと、航ちゃんは靴を脱ぎながら、私の肩にぽんと手を載せた。
「問題無え。あー、腹減った。さっさと向こうに行け」
もっ……問題無え!?
何が、そしてどれが問題無えのさ!
眩暈を通り越して、この強引な展開に憤りすら感じながら、私は航ちゃんに引き摺られてリビングに入っていった。
私たちの前に、ビールで満たされたグラスが用意されていて。
私の隣には、当然の顔をして航ちゃんが座ってた。
そして、うちの両親と航ちゃんの両親が期待に満ちた眼差しで、私たちを見てる。
そんな目線を平然と受け止めた航ちゃんは、にっこり別人航ちゃんのまま、私の肩に手を掛けた。
そっと触れるなんてレベルのものじゃない。
がっしりと掴むそれは、逃がさねえぞって勢いで、私は密かに喉の奥で悲鳴を上げた。
そして私を拘束したまま、航ちゃんは、
「突然こんな席を設けて頂き、本当に済みません。ですが、一日でも早く報告して、安心して頂きたいと思いましたので」
あっ、安心……今まさに、私がそれを欲しいんだけど。
安心感に満たされたいんだけど。
今、不安で恐怖に満ちた時間を迎える私に、誰か気付いて欲しいんだけど。
引きつった私は、そのまま硬直した姿勢で、航ちゃんの言葉をただ聞かされるのみだった。
「優香と俺は、まだ先になるけど、でもいずれ結婚する意志を固めました。そのご報告を兼ねて、ちゃんと正式に婚約って形を取らせて頂くことにしました」
そう言ってぺこりと頭を下げた航ちゃんを眺めていたら、低い小さな声で囁かれた。
「ボーッとしてんじゃねえ。お前もさっさと頭を下げろ」
「へっ……」
間抜けな返事をしていると、ぐいと頭を押さえつけられ、私も強引にお辞儀をさせられた。
痛い、痛い!!
ぐいぐいと頭を抑えられたので、思わずもがこうとした私に、航ちゃんのおばさんの嬉しそうな声がした。
「良かったわねえ、やっとこれで一安心ね」
「そうね、だけど、本当にいいの? うちは航介くんみたいな優しい、しっかりとした子に貰ってもらえるのは嬉しいけど、ねえ?」
「そうだよなあ、優香はなんていうか、ボーッとしてるからなあ」
お父さんとお母さんのそんな酷い会話を聞き、私は目線を床に向けながら、反論全開で顔を上げようとしたけど、でも。
航ちゃんの手が、私の頭をがっしりと抑えたままで、私はびくとも動けない。
何とか航ちゃんの手から逃れようともがいていると、更におじさんの声が聞こえてくる。
「いやいや、うちはさ、ほら、女の子いないし。優香ちゃんはもう、すでにうちの子みたいなもんだし。優香ちゃんのおっとり具合がまた癒されていいんだよ」
「そうかあ? 優香はおっとりってレベルじゃないと思うけどなあ?」
「ははっ、自分ちの子だとそう思うかもな。けど、全然大丈夫だって。なあ、優香ちゃん? 何にもこれから変わらないぞ。心配することはない。ただ、おじさんのこと、お義父さんって呼べるかー?」
「あらあら、そしたら航介くんだって、私のことお義母さんって呼ぶのよー? ちょっとやだ、ふふ、くすぐったいわね!!」
……ご機嫌な様子で会話を続けている私の両親と、航ちゃんの両親。
これをどう解釈していけばいいんだろうか。
そしてこれをどう、昇華していけばいいんだろうか。
無言のままの私から手を離した航ちゃんは、私に口元を寄せて囁いた。
「どうした」
どうした、じゃないっつーの!!
全然展開読めてないっつーの!!
こういうことを考えてるんだったら、最初から教えておいてよ! 私にも、心の準備ってものがあるんだし!
って文句を炸裂しようと思ったのに。
いっつもそう。今回もそう。
航ちゃんは、目線だけで私を黙らせる。
ずるい。
いつもみたいに、意地悪な眼差しを向けたなら、文句の言いようもあるのに、なのに、どうして。
とっても柔らかな、胸がキュンとなるような温かい眼差しで私を見つめてた。
「優香、覚悟決めろ」
そう言った声も、優しくて、私を包み込むみたいにふんわりとしてて……ずるい。
俯いたままの私の頭を、そっと撫でて。
航ちゃんは、誰にも聞こえないような、小さな声で囁いた。
「お前は俺が、この先も護るから。心配すんな」
「……え?」
「まだ、結婚なんてしなくてもいい。ただ、将来の約束だけさせろ」
顔を上げた私に、航ちゃんは苦笑めいたような笑みを浮かべ、私の左手を掴んだ。
そして、そこにするりと光るものを嵌めた。
冷たい金属のそれは、すぐに体温に馴染む。そして、眩しい輝きが、私の左手を包み込んでいた。
「こっ……これ……」
「お前が、俺のもんだっていう証」
そう言って航ちゃんは私の手を解放し、冷やかすうちの両親とか航ちゃんの両親と話をしてるけど。
でも、私には全然そんな会話が耳に入らない。
だって、私の左手に嵌められたの。
紛れもない。まごうことなき、煌々と輝くのは、この世の中で最高の硬度を誇るあの石。
乙女なら、誰もが夢見るあの指輪。
それが、私の左手の薬指に、燦然と輝いていた。
「こっ、こっ、航ちゃん……」
「ん?」
別人航ちゃんが、にこりと笑って私を見下ろした。
それを見上げ、口をパクパクしてたけど、でも。
……色々思うことあるけど、でも。
こうまでしても、私をちゃんと欲しいって思ってくれる気持ちが嬉しいかなって思った。
準備ばっちりして、この日を迎えるのを楽しみにしてた航ちゃんの策略に、まんまとハマってしまった私自身のアホさ加減に笑えるけど、でも。
……そこまで求めてもらえるのって、凄く有難いのかなって思った。
だけど。
だけどね。
私って捻くれてるから。
ただ、敷かれたレールの上を歩んでいくの、嫌だから。
だから。
「……航ちゃん」
「……だから、何だ」
一瞬眉をしかめ、魔王様降臨になりそうな彼に顔を引き攣らせながらも、私は航ちゃんのスーツの裾を掴んで言った。
「もっと、ちゃんとして?」
「ちゃんと?」
はあ? って顔をした航ちゃんに、私はそっと口元を寄せて、小さく囁いた。
「私たち、デートとかしたことないじゃない」
「……」
「ちゃんと普通のカップルみたいに、デートを重ねて、ドキドキするような毎日送って、それから結婚したいよ」
そう思うのは、私のワガママなんだろうか。
航ちゃんとは幼い頃から一緒にいたから、そんな気が全然起きない。
ていうか、ドキドキはする。バクバクもする。……恐怖心で。
それって違うと思う。もっと、ときめきたい。乙女的なときめきが欲しい。
キュンキュンなりたい! ……って思うのは、贅沢なことなんだろうか……。
言っておいて後悔し始めた私に、しばし無言だった航ちゃんが、突然ぎゅっと私の手を握った。
ときめきどころか、死刑執行の直前のような気すらして、声のない悲鳴を上げた私に、航ちゃんはにやりと笑って呟いた。
「いいだろう。ドキドキしたいんだな」
「いや、あの、こ、航ちゃん、ドキドキにも色々種類がありまして……」
やだよ、恐怖に満ちたドキドキはいらないから!!
しまった、ドキドキじゃなく、キュンキュンしたいって言えば良かった!!
そう思っても、後の祭り。
私の手を握ったまま、航ちゃんはニヤリと笑って私に顔を更に寄せた。
「優香」
「ひゃい……」
「俺しか見えないくらい、惚れさせてやる」
「ひゃ……い……?」
「覚悟しとけ」
その言葉の意味……分かりたくない……。
凄く楽しい時間だったらしい。
私と航ちゃんの両親にとっては。
そんな私たちの婚約披露の一日が終わり、次の日には疲労困憊な私を航ちゃんが迎えに来た。
「デートしたいんだろうが」
「へ?」
「早くしろ。デートに連れてってやる。十分で支度しろ」
……これが婚約者のセリフだろうか。
私は腕を組んで待ち受ける航ちゃんの視線を感じながら、朝っぱらから大量の冷や汗を掻き、休日だというのに全力で短時間勝負の身支度を整えた。




