第2話 甘い二択
定時になり、航ちゃんが迎えに来てくれた時、私は魂が抜けてたかもしんない。
誰もいなくなった薄暗いこの部屋で、一人目を宙に彷徨わせ、口を半開きにしていると、
「なにアホ面してんだ」
って呆れ返った声がして、やっと我に帰った。
だって、凄かった。凄すぎた。
……ハンパ無かった。
私の二番目の教育係だという人は、五十歳過ぎくらいの女の人だった。
名を、江端さんという。
その江端さんは、長い髪の毛をビシッと後ろで一つにまとめ、眼光鋭く私を見据え、
「総務のギャル共に負けないように仕込むから、覚悟しなさい」
そう告げ、私に仕事をガンガン教えてくれた。
もう私、頭狂うかもしんない。
脳の容量、すでにオーバーで、オーバーしすぎて火を噴くかもしんない。
ていうか、もう何も考えられない。
私の頭の中、数字がいっぱい踊ってて、夢にまで見るかもしんない。
そう思うほど、息つく暇なんてないほど。
事務ってこんなに忙しいの? 航ちゃんの下でやってた方がどんなにラクだったか分かんないってほど、メチャクチャハードだった。
次から次へと伝票が回され、それをパソコンに打ち込んで、計算して。
そして見積書をプリントアウトして、営業さん別に分けていく。
仕事自体は、そんなに難しいことじゃない。
専門用語も、航ちゃんに叩き込まれたのが、随分と役に立ってる。だから、流れを掴めばそんなに覚えることは大変じゃなかった。
だけど、量がハンパ無い。
打ち込んでも打ち込んでも、次から次へと伝票が待っているって感じで、底の見えないドロ沼にはまってしまったような気さえした。
でも、やっていて気付いた。
航ちゃん宛の見積書が、圧倒的に多い。
交際費はそこそこだけど、交通費はやっぱり航ちゃんが一番使ってる。
営業一位って伊達じゃないんだって思った。
前に航ちゃん言ってた。
「営業は、足で稼ぐもんだ。何度も足を運ばなきゃ、客なんて取れねえ」
って。
その通りなんだな。何度も何度も足を運んで、顔を覚えてもらって。
信用を得るから、仕事を貰えるんだ。
航ちゃんって有言実行の人なんだな。凄いなあ。
そんなことを思いながらも、私は必死になってパソコンと格闘した。
定時のチャイムが鳴ったとき、私は今までどれくらい息を止めてたんだって思うほど、深い溜息をついてしまった。
江端さんはそんな私を横目で見て、
「帰っていいわよ」
そうあっさり言うと、バチンと電気を消した。
「あ、あの……」
「経費節減」
そう重々しく告げ、江端さんが部屋を出て行ったあと、私は魂が抜けた状態になり、入れ違いに航ちゃんが私を迎えに来てくれたのだった。
「帰るぞ、さっさと支度しろ」
そう言って、航ちゃんが腕を組んで入り口で待っていてくれているので、私は慌てて決算した書類をまとめて、鞄を手にして立ち上がった。
すると、お手洗いにでも行っていたのだろうか。江端さんが戻ってきて、航ちゃんの姿を認めて眉を軽く上げた。
「あら、北里さん」
「江端さん、三島さんがお世話になりました。どうです、多少はお役に立てましたか」
別人航ちゃんが、にっこりと江端さんに微笑みかけると、彼女はちらりと私を見て、無表情で電気を付けた。
「……まあまあね」
そう言ってデスクに座り、もう話しかけるなと言わんばかりの勢いで、仕事を再開してしまった。
私、このまま帰っていいのかな。もう少し、お仕事手伝ったほうがいいのかな。
そう思ったんだけど、頭を下げた航ちゃんに引き摺られ、
「明日からまたよろしくお願いします」
とだけせめて言って、事務室を後にした。
車に乗ると、運転席にいた航ちゃんが、可笑しそうに口元を緩めてた。
「どうしたの?」
そうシートベルトを締めて首をかしげると、航ちゃんはどことなく嬉しそうに私に目を向けた。
「すげえな、優香。お前、大絶賛だぞ」
「へ?」
「江端さん。あの人、絶対人を褒めねえんだ」
「へ?」
バカみたいに同じ言葉を繰り返すと、航ちゃんは珍しく笑いを浮かべたまま車を発進させた。
大絶賛?
褒め……られた? 私? いつ、どこで?
きょとんとした私に、航ちゃんは満足そうに、
「お前、やっぱああいう地道な仕事が向いてんだな」
そう一人でうんうんと頷いてた。
でも、私もそうかもと思う。
人と接する仕事って、凄く緊張しちゃって、すぐ気持ち悪くなっちゃう。
それに、人に管理されるのも得意じゃない。
自分で考えて行動するようなのも、得意じゃない。
江端さんは、私に最初に仕事を教えてくれて、その後は結構放置してくれた。
分からないことは、ちゃんと聞けば教えてくれた。
量はハンパ無いけど、でも大体やることって決まってる。だから疲れたけど、それは肉体的にだった。
精神的疲労は、全然無い。こんなことって、今まで無かったかも。
「……うん、私、向いてるかも」
そうぽつりと言うと、航ちゃんは唇の端を上げて、片手を私の頭に伸ばし、ぽんぽんと撫でた。
「良かったな。来週から頑張れよ」
「うん!」
そうだそうだ。今日は週末。
明日、明後日とおやすみだ。
どうしようかな、一日ゴロゴロして過ごそうかな。
もう脳内休日モードになって、思わずニヤニヤしていると、団地の駐車場に車を止め、サイドブレーキを上げた航ちゃんが私に目を向けた。
ニヤニヤしてた私がその視線に気付き、航ちゃんに顔を向けると、航ちゃんはじっと私を見つめてる。無言のまま、見つめ続けてる。ってか、ガン見レベルで見つめてる。
「あ、あの……航ちゃん?」
恐る恐る声を掛けると、航ちゃんはふいに私の左側に手を伸ばし、くいと手を動かすと、がくんとシートの背もたれが倒れた。
「ひゃあ!」
そのまま背後に倒れると、私に覆いかぶさるように航ちゃんがのしかかった。
「う……うぇえ!?」
思わずたまげて、妙な声を張り上げると、航ちゃんは真剣な眼差しで私を見下ろした。
外は大分日が暮れて、もうすぐ星が瞬きそうになっている。
夕方と夜の合間の薄暗さの中、航ちゃんは僅かに私に身体を寄せた。
心臓がバクバクしてる。
何で突然こんなことになってるのか、全然分かんない。
顔がカーッと赤くなるのが分かるけど、でも航ちゃんから目が離せない。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
胸の鼓動だけが、私を包み込む。
「優香……」
囁かれる声は、いつもの意地悪なものじゃなくて。
低く甘く、蕩けるような囁きだった。
私は瞬きを繰り返し、ただ航ちゃんを見つめてた。
航ちゃんは、ふと柔らかな笑みを浮かべ、私の頬に手を添えた。
そして告げた甘い囁きは……
「選べ」
「は?」
「今すぐ頂かれるのと、ちゃんと正式に婚約してから頂かれるの、どっちがいいか選べ」
は……はい!?
いっ、いっ、頂かれるって、何!?
もしかして、大人的な発言ですか!?
ていうか、もう!? まだ私、自分の気持ちに気付いたばっかで、全然そんな余裕なんてないし、心の準備どころか身体の準備もままならない有様で、あれ、どっちが先なんだ。
身体と心、どっちを先に準備すればいいんだろうかって……ええええ!?
脳内大パニックの私に、航ちゃんが僅かに眉を寄せて、魔王様降臨の雰囲気を醸し出した。
「選べっつってんだろうが」
「いっ、頂かれるのを選択するのはいかがなものかと……」
情けない声で発した私の精一杯の反論は、ブリザードビームによって封じられた。
私は冷や汗を掻きながら、目を彷徨わせながらも、震える声で、
「えっ……選ぶとしたら、こ、こ、婚約をしてって方で……」
「あ?」
「で、ですので、婚約コンニャクーなんちて……」
「ああ?」
私の捨て身の駄洒落すら、航ちゃんには通じない。
やばい。もうやばい。
魔王様降臨カウントダウンが始まっている。恐怖に満ちた時間は避けたい。
なので、私はぎゅっと目を閉じて、叫ぶように言った。
「ちゃんと婚約してからの方がいいっ!!」
そう叫んだ後、しばらく沈黙が続く。
不気味なくらい、静かな時間。
恐る恐る目を開けると、目の前に、すんごい目の前に航ちゃんの端正な顔があって、心臓が止まるかと思った。
その眼差しは、ブリザードでも魔王様でもなく、とっても柔らかく、優しくて……
「優香」
「はい……」
「ちゃんと俺も、婚約したい」
「うん……」
「だけどお前、こうでも言わねえと恥ずかしがって受け入れねえだろ」
そうかな。
ちゃんと『婚約してください』って普通に言ってくれれば、いくらなんでも私でも……照れるか。
そうだね、私、きっと多分、めちゃくちゃ照れて嫌がるかも。
そんなことしなくてもいいって言っちゃうかも。
だって小さいときからずっと一緒で、お風呂だって一緒に入ったことがあるような航ちゃんと婚約だなんて。
凄く恥ずかしくて、凄く照れちゃう。
そんなことを見越して、こんなことしたんだ。
航ちゃんって……やっぱ優しい。
思わず笑ってしまうと、鼻をぎゅっと摘まれた。
「ふげっ!」
こんな甘いシーンでこれ!?
思わず妙な声を出した私が、むっとして航ちゃんを睨むと、航ちゃんはくすりと笑って私の左に手を伸ばして、シートを上げてくれた。
そしてやっとのことで起き上がった私の両頬を掴んだ航ちゃんは、そのまま顔を寄せて、私の唇に航ちゃんのそれを重ね合わせた。
触れるだけの柔らかいキスが、次第にぞくりとするほど気持ちいいものに変わっていく。
触れるだけのキスはおろか、こんなキスが初めての私はどうしていいのか分からずに、手を伸ばして航ちゃんに助けを求めた。
時折唇を離してくれた時に、私は意識外で呟いてた。
「航ちゃん……」
「……ん?」
「航ちゃん、好き、好き……」
「……分かってる」
くすりと笑った航ちゃんが、また私を塞いで、そして私を抱きしめて、唇を僅かに離して囁いた。
「俺も、……愛してる」
その甘い声、ヤバい。
ずるい、意地悪な声と甘い声、使い分けないで……。
私は脳内がトロトロに蕩けそうになりながら、『婚約』って何すんだろって、ぼやけた思考で考えてた。
そして休日に起きる出来事を、想像すら出来なかった。




