第1話 『彼女』初日
まるで夢を見ているみたいだった。
あの航ちゃんが、ずっと私を好きだったなんて。
本気で「嫁になれ」って言ってただなんて。
……絶対嫌味で言ってると思ってたのに。
あの意地悪な性格も、皮肉な口調も、航ちゃんの本性だから。
心を許した私だから、見せるものだと分かれば、それはそれで嬉しいかもしんない。
何だかぽわーんとした頭で眠り、そして眼が覚めた時にも、何だかぽわーんとしたままの私は、ゆっさゆっさと身体を揺らされ、それでもまだ眼が覚めずにいたら。
「お前、いい度胸だな。俺を待たせるつもりか、ああ?」
って耳元で低く恐ろしい声で囁かれ、一気に覚醒した。
ぱっちりと目を開けると、至近距離で、航ちゃんが端正な顔を不機嫌に歪ませていて。
「ひぃぃ、こ、航ちゃん!?」
上ずった悲鳴を上げると、航ちゃんは身体を起こし、ついでに私の腕を掴んで引き起こし。
冷え切った眼差しを私に向けた。
「十分だけ待ってやる」
「え……えええ!?」
はっとして時計を見ると、嘘でしょ!! もう七時半!!
何から手を付けていいか分からずに、わたわたと立ち上がると、航ちゃんは深い溜息をついて、私の襟首を掴んで洗面所に連行した。
そしてぽいっとそこに私を押し入れると、台所へと向かっていった。
「おばさーん、優香、朝御飯食べる時間無いから。お握り作ってやってくれる?」
ひゃああ、朝御飯すら食べる時間が無いとは!!
ていうか、昨日からお付き合いを始めた私たち。
私は航ちゃんの彼女って立場になったんだけど。
その初日に見せたのが、目ヤニをくっつけた寝顔だとは……余りに恥ずかしく、余りに情けなく、私はこの場から消えて無くなりたかった。
と思ったところで、事態がいい方向に行くはずも無い。
段々航ちゃんがイライラしてくるのを感じ、怯え全開で顔を洗い、スーツに着替えて化粧を終えると、
「済んだか。そんじゃ行くぞ」
航ちゃんは私の腕を掴み、車まで引き摺るように連れてった。
……全然、色気が無い。
彼女に対して、もっと優しくしてくれてもいいんじゃないだろうか。
口調も柔らかくしてくれても、バチは当たらないんじゃないだろうか。
助手席に乗り、シートベルトを嵌めながら、唇を尖らしていると、航ちゃんがエンジンを掛けながら訝しげに私を横目で見やった。
「……何ブサイクなツラしてんだ」
ブサイク!!
これが彼女に対して言う言葉か!?
信じられない!
頬を膨らませて、顔をぷいっと背けると、航ちゃんは「んだよ」ってぶつぶつ言いながらも、私にラップで包まれたお握りを差し出した。
お母さんが作ってくれたお握りだ。
まだ、ほかほか暖かい。
「あ、ありがと……」
そうお礼を言うと、航ちゃんは返事をしないで車を発進させた。
そしてしばらく運転してると、お握り二個目に突入した私をちらりと見て、
「一口、食わせろ」
なんてとんでもないことを言い放った。
「はあ!?」
「おばさんのお握り、好きなんだよ。いいから早く、一口寄越せ」
一口って……だって間接キスになっちゃう!
私がカーッと顔を赤くしていると、航ちゃんは眉を寄せて、ハンドルを握ったまま、口を半開きにして顔を動かす。
要求されている。これに従わなければ、魔王様降臨になるかもしれない。
朝っぱらから、それは避けたい。
私はとてつもなく恥ずかしくなりながらも、航ちゃんの口元に食べかけのお握りを差し出すと。
少し顔を動かした航ちゃんが、運転したままガブリとお握りに齧り付いた。
「あああ!! 半分くらい食べちゃった!」
思わず悲痛な叫びを上げると、澄ました顔でもぐもぐやっていた航ちゃんが、にやりと笑った。
「やっぱ美味えな、おばさんの」
……航ちゃんは、こういうの恥ずかしくないんだろうか。私一人、舞い上がり過ぎなんだろうか。
タバコを吸い始めた航ちゃんをじっと見ていると、赤信号で停止した航ちゃんが、ふと私に目を向け、突然身体を倒して私に顔を寄せた。
いきなりの急接近に、かちーんと固まった私の唇ぎりぎりに、航ちゃんの唇が当たる。
な、何で突然!?
驚きすぎて、目を閉じることさえ忘れた私に、航ちゃんは僅かに顔を離してぺろっと舌を出した。そこに、ご飯粒が乗っかってる。
まるできっとユデダコのように顔を赤くしたであろう私を間近で見た航ちゃんは、くすりと笑ってもう一度顔を寄せた。
今度はちゃんと、本当にキス。
ちゅっと音を立てて唇が離れていく。
そして何事も無かったかのように、前を向いて運転する航ちゃんを、赤くなった頬を押さえてもう一度見上げた。
……相変わらず、意地悪だけど。めちゃくちゃ、怖いけど。
でも、この人の彼女になったんだなあって、この時、妙に実感した。
会社に着いて、航ちゃんは三階へ行かず、私を連れてそのまま五階に向かった。
「どこ行くの?」
そう尋ねても、航ちゃんは教えてくれない。
やがて連れて行かれたのは、専務室。
ノックして、返事すら聞かずに扉を開けた航ちゃんと私を出迎えてくれた専務様は、今日も朝から胡散臭い笑みだった。
「おはよう、航介、優香ちゃん。待ってたよ、どうぞどうぞ」
そう言って、ソファを勧めてくれて、テーブルの上に何枚か資料みたいな紙を並べ始めた。
「そんじゃ早速だけど、始めようか。優香ちゃん、この会社に入って一週間が過ぎたけど、どう? 大分仕事慣れた?」
そう専務様ににこやかに聞かれ、私は困ってしまって航ちゃんを見上げた。
返事をしてもいいのだろうか。私は航ちゃんから、専務様と会話をすることを禁じられているから。
私の視線に気付いた航ちゃんは、腕を組んで偉そうにふんぞり返り、顎をくいっと動かした。
返事をしろってことか。
それにしても、いくら友達だからといって、会社内では専務様と営業社員という立場なのに。何で航ちゃんの方が態度がデカいんだろう……。
私は眩暈を起こしそうになりながらも、専務様に目を向けて、もじもじと指先を絡め合わせた。
「え、ええと……慣れたかどうかって言われたら、慣れたって言うのはとてもオコガマシイことだと思うし、慣れてないって言われても、ええと……」
「はっきり言え」
おどおどと返事をしていたら、隣から黒いオーラが立ち上り、私はびくーんと身体を硬直させた。
そのまま固まっていると、航ちゃんは低く舌打ちをし、
「慣れたか慣れてねえか、どっちだ」
「はっ、はい、ええと、慣れた……と思われます……」
「あ?」
「え、ええと、違くて、慣れたかもしれない、と言うべきか……」
「ああ?」
「なっ、慣れました! 慣れさせて頂きました!!」
半べそを掻きながらも、航ちゃんの方を恐ろしくて見れないでそう叫ぶと、目の前の専務様が可笑しそうに噴出した。
「はは、そっかそっか、慣れたみたいなら良かったね。で、どうする、航介。このまま営業事務の仕事を覚えてもらう? それとも事務補佐も試しにやってもらう?」
にこにこと笑いながら言う専務様に、航ちゃんは、不機嫌そうな顔で小さく溜息をついた。
「……営業のやつらは、矢島みてえな目的ではもう、こいつには近寄ることはねえと思う」
「ああー、そうだねえ。矢島くんも、早速退職届出してきたしねえ」
えええ!? 昨日の今日で、もう!?
思わず驚いていると、航ちゃんは鼻で一笑し、もうその話題に触れようとしなかった。
い、一体矢島さんに、どんな脅しをかけたんだろうか……気になるけど、でも、正直言って知りたくないって思った。
きっと、多分。
別人航ちゃんの笑顔のままで、メテオを落としたに違いない。矢島さんを追い込んだんだ。きっとそうだ。
絶対この人だけは、敵に回しちゃいけないって植え込んだんだな……
なんて恐ろしい。背筋に冷たいものが走っている私を見下ろし、航ちゃんは、
「別の部署でもいいかも知れねえ。こいつ、鈍いしトロいからな」
なんて酷いことを吐き捨てた。
トロいし鈍い!!
キィー! ってなりそうになった私だけど、それが事実なだけに反論出来ない。
だけどはっきり言われて腹が立つ。むっとして横目で航ちゃんを睨み付けると、五倍返しのブリザードビームが返ってきて、私はさっと目線を逸らした。
「はは、航介も心配性だねえ。けど、うーん、じゃあ、お試し期間でまた一週間くらい、事務補佐をやってもらおうか」
「んだな。それじゃ優香、行くぞ」
そう言って立ち上がった航ちゃんは、そのままエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した。
そして降りていくエレベーターの中で、航ちゃんは唇の端を上げ、意地悪な笑みを浮かべた。
「これから行くとこに、もう一人のお前の教育係がいる」
「そうなんだ」
「ああ。お前のそのトロさを鍛えてもらえ」
どういうことよ!!
憤然とした私が航ちゃんに文句を言おうとしたら、エレベーターが一階に到着してしまった。
唇を尖らせた私を連れて、総務部の方に向かっていく。
そっか、事務だもんね、総務部でのお仕事なのかな。
そう思っていたら、航ちゃんはその前を通り過ぎ、建物の端っこっぽい部屋の前に立った。
「ここだ」
そう言って、ノックをすると、しばらくして中から低い、「どうぞ」って女の人の声がした。
その低さに、何だか私は嫌な予感がぐんぐんと湧いてきた。
何でだろう。私の第六感が、ここは危険だと教えてくる。
びくびくし始めた私を見下ろした航ちゃんは、フッと笑って扉を開けた。
「覚悟、決めろ」
小さく囁いたその一言、意味分かりません!!
どんどこ沸きあがる不安感で、私はすでに、頑張る意欲半減、恐怖心倍増になっていた。




