第21話 胸の痛み
抱きつき、わんわんと泣く私を驚いたように抱きとめた航ちゃんだったけど、専務様と何か一言二言言葉を交わし、私を助手席に押し込んで車を発進させた。
車の中はなぜか静かで、音楽すらかけない。
ただ、私のしゃくり上げる泣き声だけが、響き渡っていた。
やがてしばらくして、私の泣き声が落ち着くと、やっと航ちゃんが口を開いた。
「……んで、泣いてんだ」
「だって……航ちゃんが、喧嘩しちゃったのかと思って……怪我したんじゃないかって思って……」
またしてもぽろりと涙を零しながら、運転する航ちゃんに目を向けた。
航ちゃんは、真っ直ぐ前を見ていて、眉が僅かに寄っているみたいで。
私の言葉に、どこか不機嫌そうな表情を浮かべている。
それを見て、胸がずきんと痛んだ。
私の一言で、航ちゃんがイライラしてる。
私が心配することすら、航ちゃんの機嫌を損ねることなんだろうか。
そう思ったら、何だかとっても悲しくなって、私は航ちゃんから視線を外して俯いた。
そして二人、そのまま口を開くことなく、また静かな車内に戻る。
この静かな空間が辛くて、早くうちに着かないだろうかって心の中で祈ってた。
航ちゃんが、怪我をしていなかった。それだけ分かれば、もうそれでいい。
航ちゃんの不機嫌そうな顔を、これ以上見たくなかった。
だから、早く家に帰りたいって思った……。
それから、どれくらい時間が流れたんだろう。
ふいに航ちゃんはハンドルを切り、車を駐車場に停めた。
まだ、家じゃない。私たちの住む団地じゃなかった。
驚いて顔を上げると、航ちゃんはさっさとシートベルトを外し、ドアを開けた。
「降りろ、優香」
そう言って、私を見ないで車から降り立った。
私も慌ててそれに倣うと、航ちゃんは車の鍵をしめて、すたすたと歩き始めた。
ここ、どこだろう。きょろきょろしながら、広い駐車場を突き抜けていくと、海の見える大きな公園だって分かった。
時期的なものなのか、時間的なものなのか。
辺りが夕暮れに包まれているこの公園は、あまり人がいなかった。
いつの間に買ったのか、航ちゃんは私に暖かい缶コーヒーを渡し、ベンチの一つに腰を下ろした。
立ち尽くしたまま、航ちゃんを見下ろしていると、航ちゃんは訝しげに眉を寄せ、
「何してんだ。さっさと座れ」
と言って、ぽんぽんと隣を叩いた。
慌ててそのベンチの端っこに腰を下ろした。
「……何でそんなに離れて座る」
「……だって」
私のことが嫌いなんだったら、あんまり傍にいない方がいいだろうと思った。
航ちゃんの考えてること、よく分かんない。
私にすぐ怒るし、私に不機嫌そうな態度ばっかりするし……誰が見ても、私のことが嫌いなんじゃないだろうかって思える行動だらけだ。
でも、専務様は航ちゃんにとって私が『特別』だって言った。
その『特別』の意味、分かんない。『特別』イラつかせる存在なんだろうか。
そう思うと、悲しくなって泣き出したくなる。
だけど、航ちゃんは私を気に掛けてくれる。心配もしてくれてる。
だから、私はどうしていいか、分かんなくなる―――……
「……優香」
航ちゃんの声に、私ははっとして意識を浮上させて、びくりと身体を震わせた。
そして隣に目をやると、航ちゃんが缶コーヒーの蓋を開けないまま、両手の中で転がしていた。目線は、目の前に広がる海に向けられていた。
「何で、喧嘩したって思った?」
突然のその質問に、私は瞬きを繰り返し、……航ちゃんと同じように海に目を向けて呟いた。
「だって、凄く怒ってたし、矢島さんの方に向かっていったし……」
私がそう言うと、航ちゃんはフッと笑って、
「俺は、この会社じゃ絶対そんなことはしねえ。どんなにムカついても、ぶっ殺してえって思っても、この会社ん中で暴力沙汰なんて起こさねえ」
「……そっか」
「ああ。俺が今まで作ってきた基盤を壊すほどバカじゃねえ。だけどな、それが原因で、お前を傷つけたのは許せなかった」
航ちゃんの声が低くなり、私は驚いて航ちゃんに眼を向けなおした。
端正な横顔は、笑み一つ浮かべていなくて、ぞくりとするほど冷え切っていた。
「あんなことを言った矢島を許せねえ。お前に近づいて、利用しようとした矢島をマジでぶっ殺そうかと思うほどムカついた。だけど、矢島がどう出るかなんて、ちょっと考えりゃ想像つくことだったのに……それを阻止出来なかった、俺自身が一番許せねえ」
航ちゃんは、低い声のまま、呟くように言い、そして短く舌打ちをした。
「矢島を許すつもりなんて微塵も無え。だけど、あいつを殴ったら、全てが終わりになる。むしろあいつの思い通りの結果になる。そんなことはさせねえ。だから―――」
だから……?
航ちゃんを見つめ続ける私にふと顔を向けて、航ちゃんはにやりと笑った。
それはきっと、私にしか見せない顔。意地悪感満載で、そこはかとなく私を怯えさせるような、そんな顔。
「俺を完全に敵に回したことを、後悔させてやった」
「……へ?」
「この業界で、生きていくのを諦めさせた。あいつはもう、インテリア業界で営業をしていけねえ。だから、近いうちあいつはうちの会社を辞めんだろ」
「え、……って、えええ!?」
航ちゃん、一体矢島さんに何を言ったの!?
驚いて、目を見開く私を可笑しそうに見て、航ちゃんは魔王様の笑みを浮かべた。
「もう今後、お前を利用しようなんてやつは現れねえ。だから安心しろ。誰も矢島の二の舞を踏みたくねえだろうからな」
「こ、航ちゃん……」
「あ?」
一体何をしたんだろうか。何を言えば、この業界で生きていけないなんて思わせることが出来るんだろう。
呆然と航ちゃんを見つめたけど、でも……航ちゃんなら、そんなことも言えちゃうし出来ちゃうんだろうと思った。
一年間も、営業成績トップに君臨してる航ちゃんだったら、きっとそんなことも可能なのかもしんないって思った。
そう思ったら、凄く可笑しくなって、思わず私は噴出してしまった。
くすくすと笑う私を、航ちゃんは眉を寄せてみてたけど。
ふいに私に手を伸ばした。
「優香、もう少しこっちに寄れ」
「……でも」
「さっさと来い」
否定を許さないその声に、私は渋々座ったまま、航ちゃんの方ににじり寄った。
近くに寄った途端、航ちゃんは私の頭に手を置き、私を覗き込んで言った。
「悪かった。お前に嫌な思いをさせたな」
そんなこと、言われると思っていなかった私は驚いて、目を見開いたんだけど。
だけど、航ちゃんの眼差しが真剣だったから、私も表情を改めて、首を横に振った。
専務様に言われて、びっくりしたけど。人を利用してまでも、誰かを蹴り落としたいなんて思っている人がいるなんて、信じられないけど。
悲しい思いをしたけど、でも、今は良かったって思える。
矢島さんの一件があったからこそ、私は航ちゃんの生きている世界が少しだけ分かったような気がしたから。
どんなに大変なお仕事をしているのか、分かったような気がしたから。
だから、私は自然に浮かんだ笑みを航ちゃんに向けて、大きく首を振った。
「大丈夫だよ。あのね、あの……心配してくれて、ありがと」
そう言うと、航ちゃんは僅かに息を呑み、私の頭に載せていた手を、肩まで降ろし……そしてもう一つの手を、逆の私の肩に置いて。
ぐっと私を引き寄せた。
急に包まれた、航ちゃんの胸の中。
ぷん、と航ちゃんの香りが鼻腔に充満し、私は一挙にパニックに陥った。
い、一体なに?
何で、どうして!?
真っ白な頭で、動揺している私に、航ちゃんの低い囁く声が降り注いだ。
「優香……」
私を呼ぶ声。
今まで聞いた航ちゃんの声と、全然違う。
優しく、柔らかい―――だけど、会社の人たちと話す声とも全然違う。
甘い声が、もう一度私の名を呼び、私は身体を硬直させてしまった。




