第20話 責任
頭をぎゅっと抱え、車の中で蹲ってた。
怖い。
何が怖いって、航ちゃんが怪我をしちゃうんじゃないかっていうのが、一番怖い。
私のせいで、もしも矢島さんと殴り合いの壮絶な喧嘩になって、航ちゃんが怪我をしたら……それを想像するだけで、私は全身が震え上がるほどの恐怖を感じてた。
今まで、こんなに航ちゃんのことを心配することなんて無かった。
私の前ではいつも自信満々で偉そうな態度だったけど、他の人には柔和だったから、トラブルらしきものを聞いたことが無い。
だからこそ、航ちゃんの身に何かあったらなんて、想像することも無かったのに。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
私、ここでただ待ち続けているなんて耐えられない。
もし、矢島さんが実は格闘技選手権で優勝経験があるような人だったらどうすんの?
航ちゃんって、何か習い事していたっけ。あ、そうだ、確かソロバン習ってた。一級取って、辞めちゃったって言ってた。暗算も一級取って、意味分からない桁の暗算を私に披露して、三桁の足し算も筆算でしか出来ない私をバカにしてたんだった。
ダメじゃん、格闘技王とソロバン王じゃ、勝てる訳ないじゃない!!
なぜか私の脳内で、勝手に矢島さんが格闘技王に格上げされていて、私は一人大パニックになり、慌てて車を飛び出した。
そして飛び出したはいいものの、その後どうすればいいのか分からずに、オロオロ左右を見渡していると、呑気な声が私に掛けられた。
「あれえ、優香ちゃん。どうした? 航介待ち?」
はっとそちらを振り返ると、コンビニの袋を手にした専務様が、にこにこと手を挙げていた。
笑み、胡散臭いけど。まだ、どんな人か分かんないけど。
でも、少なくとも航ちゃんをよく知っている人が現れ、私はぴんと張っていた緊張の糸が、そこでぶっつりと切れてしまって。
「ふうぇ……」
情けないことに、その場に蹲って泣き出してしまった。
専務様は、相当慌てたんだろう。コンビニの袋をその場に取り落とし、私に駆け寄って来てくれた。
「ゆ、優香ちゃん!? どうしたの、どっか痛いの!?」
申し訳ない気持ちで一杯になるけど、でも、私はどうにもならなくて。
航ちゃんが心配で心配で仕方ない気持ち。
そしてどうしていいか分からないもどかしさ。
色んな感情が私の中で一挙に巻き起こり、それをどう処理していいか分かんない。
だから、専務様にちゃんと説明しようにも、言葉に上手くならなくて、私は最終的に、専務様に頭を撫でられて慰められてしまう始末だった。
「ゆっくりでいいよ、落ち着いて。どうしたの、誰かに意地悪された?」
意地悪されたって言われたら、それはその通りかもしんないけど、でも話のレベルはそんなもんじゃない。
今まさに、航ちゃんは返り討ちにあって、半殺しの目に合っているかもしれない。
そう思うと、私は更に涙がどんどこ吹き零れ、専務様に縋るように少しずつ事態を説明していった。
どもり、しゃくり上げながらの私の説明を、辛抱強く聞いてくれた専務様は、途中で事態を察してくれたようで。
「うぇ、ご、航ちゃんが、航ちゃんがぁ……!」
と泣き叫ぶ私の背中をさすって苦笑を浮かべた。
「そっか、とうとう来るべきときが来たか」
「くっ、来るべき時って……」
「うーん、何ていうかな。航介はさ、敵を作らないように、ああいうキャラを自分で作ってるじゃん?」
専務様は、苦笑のまま私を覗き込んだ。
茶色い瞳が、柔らかい光を放っているけど、でも違う。
その奥に、強い、何か分からないけど……何か、専務様の感情が含まれているようで、私はしゃくり上げた声が一挙に収まってしまった。
専務様はそんな私を見つめながら―――私を見ている振りをして、私じゃなく、きっと航ちゃんに向かって呟くように言った。
「そんなん、限界あるんだよ。妬み怨みなんて、誰でも持ちえる感情だ。そしてあいつは、それを受けるのに十分な資格を備えちゃってる。今まで何とかギリギリラインで留めてたつもりなんだろうけど、それを発散させるきっかけを自分で作ってるって、どうして気付かないのかね、あのオバカさんは」
「……専務?」
専務様の口調が、いつもと違うのに気付いた。
おどけたような、明るい専務様の声が、低くて私をぞくりとさせる。
思わず怯えてしまった私に気付き、専務様は更に苦笑を深めて、私の髪をそっと撫でた。
「ああ、ごめんね。優香ちゃんが悪い訳じゃないんだ。全部あいつが悪い。あのね、航介、営業成績ずっと一位だろ?」
「……はい」
「営業って、どこの会社もそうかもしんないけど、給料に反映されるからさ、それに将来の査定にも響くから。同僚といえど、蹴落としても成績取りたいわけ」
……怖い世界だな。
私には、絶対無理かも。そんな世界で働ける自信なんて無い。ていうか、真っ先に存在を抹消されそうな気さえする。
俯いた私に、専務様はさっきよりも柔らかい声で続けて言った。
私を慰めるように、私の頭部に手を添えて、ゆっくりと撫でながら。
「それにさ、航介のあのニセモノスマイルと、あのルックスに騙されちゃう女の子って多いんだよ。必然的に、モテるわけ。そうなると、分かるだろ? 営業部内は、航介の足元を掬おうとする連中ばっかなの」
専務様の言葉に、私は愕然としてしまった。
だって、凄く皆仲良さそうだった。
皆、航ちゃんに笑顔を向けていたし、航ちゃんだってそんなピリピリした素振りなんて見せなかった。
私が呆然としていると、専務様は座り込んだ私の目線に合わせるように腰を落とし、
「優香ちゃんをこの会社に入れた時点で、航介は自分の『弱み』を敵に明かしたってことになる。それをちゃんと処理しないままでいた航介の責任だ。だから、今は自分の尻拭いをしてるんだ。それを、優香ちゃんが気にすることはないんだよ」
……専務様の言うことは、抽象的過ぎる。私のオバカな頭じゃ、理解できない。
だけど、一つだけ分かったことがある。
専務様は、全部最初から分かっていたんだ。
私がこの会社に入れてもらったときから、こうなるって。
だから、私のことも気にしてくれたし、航ちゃんにわざわざうちに来てまで忠告してくれていたんだ。
それを知って、私は更に泣けてきて、両手で顔を覆ってしまった。
そんな私の頭を撫でてくれていた専務様は、ふいに私の手を取った。
そして自身が立ち上がると、私も引っ張られるように同じように立ち上がる。
専務様は、私の両手を揺らしながら言った。
「ねえ、優香ちゃん?」
「は、はい……」
「どうして航介が、優香ちゃんと他の人の態度が違うか、分かる?」
「え……?」
それは、きっと幼馴染だから……
そう思った私が顔を上げると、専務様は、柔らかい微笑を浮かべて私を真っ直ぐ見つめてた。
「俺は、出会ったときにもう、航介の二面性を見破っちゃったから別だけど。でもね。優香ちゃんは『特別』なんだよ」
「とくべつ……」
「うん、そう。誰よりも優香ちゃんを『特別』だと思ってるんだ。だから自分の全てを明かしてるんだ。それに気付いてあげてね」
専務様はそう笑い、私をそのまま航ちゃんの車まで連れて行ってくれた。
そして助手席を開け、私をそこに座らせて、ポケットからハンカチを出して。
「あーあ、可愛い顔が台無しだよー」
なんて言いながら、私にそれを差し出してくれた。
ハンカチを受け取りながら、ぐるぐる頭がパニックになってる。
だって、『特別』って……
幼馴染って、そういう意味なんだろうか。
自分の過去を知っているからっていう意味なんだろうか。
それとも、もっと違う意味があるんだろうか……。
だけどそんなことよりも、今、私は航ちゃんが心配で心配で仕方が無くて。
専務様が貸してくれたハンカチを、泣き声を漏らさないように、ぐっと口元に押し当てていると、目の前で跪いていた専務様がくすりと笑って手を伸ばした。
「大丈夫だよ、航介は」
その手が、私に触れそうになった瞬間。
「……何してんだ、てめえは」
低く地を這うような声がした。
はっとして顔を上げると、専務様の後ろで、不機嫌絶好調の顔をした航ちゃんが、魔王様降臨直前の響きを醸し出して専務様を見据えて言った。
「優香から、離れろ」
「……始末してきた?」
それに怯えることもなく、専務様は笑いを堪えたような声で立ち上がり、航ちゃんと対峙した。
「ったりめえだろうが。……おい、何泣いてんだ」
航ちゃんの目線が私に向かれ、私は必死で航ちゃんの頭から足元までを舐めるように見渡した。
怪我はないか。
それだけが心配だった。
航ちゃんは、さっき会った時と同じように、紺色の薄いストライプの入ったスーツでビシッと決まったままだった。
何も、変わらない。何一つ、変化が無い。
それにどれだけホッとしたんだろう。私はせっかく引っ込んだばかりだとういうのに、また涙が溢れてきて……
「うぇえ、航ちゃんー!!」
そう泣き叫んで、ぎゅっと航ちゃんに抱きついた。




